『…… 泣いたらオムツの交換とミルク。泣いたらオムツの交換とミルク。泣いたらオムツの交換とミルク。泣いたらオムツの交換とミルク。泣いたらオムツの交換とミルク——』
ブツブツと、ルスの祖母が同じ言葉を何度も何度も何度も繰り返している。ぺたりと部屋の床に座り、細腕にルスを抱えてはいるが、瞳の焦点は虚で何処も見てはいない。これは生後半年程度は経過している時の記憶みたいだが、それ程大きく育っている様には感じられなかった。
祖母の年齢はわからない。が、心労と突然の育児負担で体を壊し、想像する年齢よりも相当老けて見える。ルスを押し付けられた日に仕事は辞め、数年前に他界した夫が残した死亡保険金を切り崩して、赤ん坊と二人で最低限の生活を送っているといった感じだ。
ルスの母親である“澤口あかり”のせいで、祖母には頼れる親戚はいない。あの自己中心的な性格のせいで随分前に絶縁されてしまったみたいだ。娘の家出後もそれは続き、その時の経験で心を病み、友人も作れないまま今に至ったせいで祖母は完全に孤立していた。
相談相手もおらず、国の福祉などを頼るという発想にも行き着けないくらいに憔悴しきったルスの祖母は、この数ヶ月ですっかり体を壊し、更には現実から逃げるみたいに認知症まで患ってしまったみたいだ。ふらりと買い物に出て行っても同じ物を何度も買って来てしまうので、色々な物の在庫が無駄にどんどん増えていったり、半日以上家に帰って来られなかったり。色々と忘れてしまっている自覚がかろうじてあるのか、家の中には忘れたくない事や大切な事を書いた付箋紙がそこかしこに貼ってある。ルスの面倒を見る事を最優先にしてはいても、しばらく泣いていることに気が付けない事もあったし、オムツの交換中にぼぉとしたまま動かなくなる事もあった。
意味もなく突然叫んだり、衝動的に物を壊したり、行方不明にもなる祖母の元。赤ん坊を育てるには最悪な環境ながらも、ルスはどうにかこうにか九歳になるかどうかの頃合いまでは祖母が必死に育てたみたいだ。だが、その間ルスは幼稚園にも学校にも行けなかった。そもそもルスは出生届からして出されていなかったのだ。
この世界には存在していない子供。
誰からも名前すら与えられていない、ジェーン・ドウ。
不憫で不遇な少女。
そのせいか、彼女は家から出た事も無く、近所を散歩したり、子供なのに公園にすら行った事がなかった。当然友人もいないから社会性も育たず、知識なんか殆ど持たず、中身が空っぽのまま、体だけはほぼ赤ん坊向けのミルクでどうにかこうにか命を持っていると言える最低限のレベルで育っていく。生まれ持った観察力のおかげで言葉は多少理解していたが、祖母との短いやり取りや押せば機会音の鳴る板だけでは限界があったので、三歳程度の知性があるかないかくらいなものだった。
母親である“あかり”は、気が向けばたまにふらっと顔を出しても、数分程度で自分の家に帰って行く。二人は顔を合わせるたびにいつも言い争ってはいたが、毎度祖母の完敗で、『ソレのオムツでも買って来てあげるからさ』だとか『教育費を貯めておいてあげる』と言っては、祖母が少しづつ貯金から切り崩している貴重な現金を無理矢理勝手に財布から奪い、また数ヶ月戻って来ないという事を繰り返していた。実母に育児を全て押し付けている身でありながら、札どころか小銭まで平然と搾り取っていく精神には反吐が出る。ルスに取り憑く前なら嬉々として、より一層この女を煽ってやりたかったと思えただろうが、今はそんな気分にすらなれない。
『あーん、もう!今日はこれっぽっちしかなかったぁ』
『いやいや…… あかりが金取るとか、そもそもおかしくね?』
『へ?なんでぇ?こっちは娘と暮らしたいのに、どーぉしても孫と暮らしたいって懇願されて、仕方なく、嫌々貸してやってんのよ?レンタル料くらい貰うのは当然じゃん。ペットとか生き物飼うとボケ防止にもなるって言うし?アタシなりの親孝行ってやつだよ。それにほら、この程度のお金で生き物借りれるとか、他だったらマジ無理だよ?』
『なるほどなぁ、確かに!』と、此処まで同行していた、毎度違う男に理解不能な嘘を言いながら去って行く声がアパートの廊下から微かに聞こえ、玄関先で蹲る祖母の悔しそうな泣き声がルスの耳に届く。
毎度毎度なけなしの金を取られ、『買って来る』と言っていた育児の品は今までに一度も貰った試しが無い。ルスの父親からもらっているであろう養育費で買ったと思われる華美な格好で実家に顔を出す度に、『ソレの為だからさ』と言いながら金を奪うだけ。子供の成長っぷりや今の状態は一切訊かず、顔を見ていこうともせず、自分が産んだ子に対しての無関心っぷりで益々祖母の心が病んでいく。
『あんな子を産んだ私が悪いんだ…… 。あんな子を、あんな…… あぁぁぁぁぁぁっごめんなさいごめんなさい——』
血が出る程に自身の顔面を何度も引っ掻きながら嘆く祖母の背中をルスが優しく撫でてやる。この頃にはもう、彼女からは喜怒哀楽といった感情は全く感じられず、ただその日その日が早く流れ去っていく事だけを願っていた。
「——おーい。朝だよー」
ルスの明るい声で目が覚めて瞼を開けると、彼女の顔がすぐ目の前にあった。記憶の中の彼女みたいに真っ黒には塗りつぶされていない、憎たらしいくらいにバチクソ愛らしい顔だ。
「あー…… 。すまん、寝坊したのか」
「端的に言うと、そうだね。あ、でも大丈夫だよ。ワタシが朝ごはん作ったから!」
(全然大丈夫じゃねぇ)
すんっと冷静な顔になりながら本心を押し殺す。久しぶりに、焼いただけの肉や野菜を食べる羽目になるのかと思うと朝から憂鬱だ。…… でも、多分この憂鬱な気分は飯の心配のせいだけじゃない気がする。これはきっと、さっきの夢のせいだ。
「…… もしかして、具合が悪いの?大丈夫?」
上半身だけ体を起こし、額をそっと押さえる僕にルスが心配そうに声を掛けてくる。顔色でも悪くなっているのか、僕の顔を覗き込むルスの表情は曇っていた。
「平気だよ。ただその、夢見が悪かっただけだから」
「そっか…… 」と言い、ルスが僕の背中を優しい手付きで撫で始めた。小さな手からじわりと伝わってくる体温が驚く程に心地いい。あんな経験をして育った女だとは思えないくらいの情の深さだ。流石、希少職であるヒーラーを名乗れるだけのことはあるな。
(この鬱憤は、ルスの母親を殺せたらスッキリするんだろうか?)
一瞬、感情が表情に出てしまったのか、ルスの手が軽く震えた。だが離す事なく背中を撫でてくれる。僕の気持ちを少しでも早く落ち着かせようとの配慮だろう。…… 根っからの優しい子だ、本当に。僕がルスの『夫だから』だとか、そんな理由からなのだろうが、愛情を抱いていない相手によくまぁこんなふうに寄り添おうと思えるもんだ。
「なぁ」
「んー?」
「…… 抱き締めても、いいか?」
「うん、もちろん」
同様の事を初めて頼んだ時とは全く違う。警戒心の欠片も、動揺も、気恥ずかしさすらも感じられない顔をして、ルスが両手を広げた。弟を抱き締める時と何ら変りない表情だ。そのせいなのか、ちくりと胸の奥が痛む気がする。見向きもしたくない感情にそっぽを向いて、僕は素直にルスの背中に両腕を回した。そして、強く、強く抱き締める。だけど、ルスの呼吸が止まったり、骨が軋んだりはしない程度に我慢した。
(…… この先、ルスを害するのは僕だけで充分だ)
誰にも傷付けさせはしない。もう、誰にも譲らない。僕だけがこの子を囲うんだ。
もっとルスとの同調が進んだら彼女の生まれた世界にまで行って、絶対にあの女を殺してやる。
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