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とはいえ──。
春の到来は確かに伺えるが、水を浴びるには、まだ、早い。
濡れた衣が、肌に纏《まつ》わりついて、水を吸った布は冷えた空気を呼んでくれた。
肌寒さを感じつつ、いっそ、見頃をはたけてしまおうかと、ヘタリこむ夢龍が思ったその時、頭上から野太い男の声がした。
「よおよお、兄さん、さんざんじゃねぇか」
「ああ、まあな」
と、夢龍が答えながら見上げた先には、異国の男がいた。
いや、正確には、世に言う禽獣の顔つきをした男だ。
茶色の髪に、緑瞳……。
夢龍は、つい、男に見いった。
「おやおや、黄良、お前さん、男にも持てるんだねぇ」
男のがたいの大きさに隠れているが、後ろには、一台の篭《かご》と、琴を抱える童子がいた。
篭の覗き窓が小さく開いて、夢龍へ、女が視線をよこしてくる。
「あんた、行くところが無いんだろう?あたしの店で、働くかい?」
「店?」
「ああ、南原一の美人妓生《キーセン》春香様の店だ」
黄良と呼ばれた、茶色の髪の男が、自慢気に言った。
「……少しよいか、つまり、私も、商品となるわけか?」
妓生といえば、宴で、楽奏や、舞などの芸を見せ、華を添える女達のこと。しかし、実際は、その身で男達に奉仕するのが、一番の役目だった。
その女の店、という事は、言ってしまえば、娼館で、そこで、と誘われた夢龍は、男娼として──、と、言うことなのだろうか。
いや、ここは、都ではない。気に入った男を侍らせるほど、ゆとりのある、女主はいないだろう。
「ははは!春香、やっこさん、その気だぜ!うちも、そろそろ、そっちへ手広げてもいいんじゃねぇか?」
「そうだねぇ。それもいいかもねぇ」
と、篭の中から、からかい声がする。
「まあ、そのずぶ濡れのままじゃあ、不味かろう。着替えた方がいい。うちで働くかどうかは、それからだ。で、春香よ、構わねぇか?」
「あいよ」
女の、素っ気ない返事と共に、篭は動き始めた。
「童子!こいつのことを片付けたら、すぐにそっちへ向かう。それまで、うまく、立ち回っておけ」
あーい!という、童子の返事が、響いてきた。
「さてと、俺は、黄良という。この通りの見かけのお陰で、春香の用心棒をやっている」
「ああ、妓夫か」
概ね、妓生には、男がついていた。
絡んで来る客の応対であったり、女の身に、何かあった時の為にと、用心棒として、控えているのだ。
それは、共に仕事をする仲間であるのだが、時に、文字通り、夫、つまり、内縁の関係であったりもした。
「おいおい、雇い主に向かって、えらく、高飛車な男だな」
ほおーと、黄良は、目を細めた。
夢龍は、はっとする。この男は、切れ者だと──。
「……私は、夢龍。訳あって、都から……まあ、言ってしまえば、追い出された。それなりの家に住んでいたのだがな」
「つまり、放蕩息子というわけか」
ははは、と、黄良は、笑っているが、おそらく、夢龍の言った事を信じていないだろう。
緑色の目が、夢龍を、訝しげに見つめていた。
「俺のモノでは、お前には、大きすぎるだろう。下働きの男のを借りて来てやった」
黄良に春香の店に連れてこられている夢龍は、くたびれた衣を差し出された。
「まあ、若様には、不釣り合いだがな」
言うと、黄良はニヤリとした。
見え透いた挑発だと、夢龍は思った。そんなものには、馴れている。都では、支配階級は、嫌われていた。そして、年若い夢龍は、常に、からかいやら、嫌みやら、理由なき苛立ちをふっかけられていたのだ。そのたび、お付きのパンジャが上手く立ち回ってくれていた──。
「いやいや、着れるだけでもありがたい」
夢龍は、パンジャの真似をしてみる。これからは、一人で対応しなければならない。幸いにも、夢龍には、パンジャというお手本がある。やつの行っていた様に、こなして行けば良いだけだ。
「……お前、どうしちまった。急に、おかしな口調に成り下がって。俺に、喧嘩売ってんのかよ?そんなに、衣が気にくわねぇのか?」
どうしたことか、黄良は、苛立った。
「いや、そんなつもりは、ないのだが……つい」
つい、なんだって?と、黄良が迫ってくる。
「い、いや、ここは、酒場なのか?思っていた様子と異なったので……」
「で、下世話になってみましたって、か?」
「ああ、まあ、そうゆう風に見えたのなら、謝る」
夢龍は、とっさに、黄良の機嫌を取っていた。
どうも、あの、緑色の瞳は落ち着かない。瑠璃のような、輝く瞳は、美しいと見せかける。企みという 濁りを隠すのには、適していると夢龍は思った。 お陰で何を考えでいるのか、さっぱり読めない。
「まあ、いいさ、世間知らずのお坊ちゃん相手にしたところで、しょうがない。ここは、春香の店だ。表向きは、宿屋ということになっている。泊まり客に、飯を出しているだけで、ここは、皆が、飯を食いに来る所だ」
なるほど、それで、内には、机、外には縁台が並んでいる訳か。あえて、表向きという所を見ると、酒も置いてある、ということで、無論、密造酒の類《たぐ》いだろう。まともな酒を扱っては、この田舎で商うのは無理なこと。手頃な値段で出せる酒、と、なると、自家製なり、どこかから仕入れる、非合法という類の酒──。
だから、表向きは、と、言ったのか。はたまた、また別の裏があるのか。
「気になるかい?」
深追いするな、と、いうことか、はたまた、探れるものなら、やってみろ、と、いうことか。
やけに、開き直る黄良の態度が、ひっかかる。
「それは、そうだろう。もしかしたら、働くことになるかもしれないのだから」
夢龍の言い分に、こいつは、おもしれぇー、と、黄良は、笑った。
「まあ、おいおいわかるさ。別に、隠しだてなどしてないからな。そんなことしてたら、客が来なくなる。そうだろ?」
なぜか、黄良は念を押して来た。
「さあ、私には、わからん話だ。すまんが、着替えさせてもらって良いか?」
「おお、そうだったな。濡れ鼠のままだったな!」
引き留めて悪かったと、黄良は笑った。