二日前に親友にプロポーズをされた。
ひとまず、お付き合いをすることになった。
でも、だからって何が変わるのか。
「そういえば」
気だるさと気合いの入り混じる月曜日の夜、総一朗から夕食に招かれた。
彼手製のソースがかかるステーキをメインに、健康と美を意識した十品目のサラダ、グラスに注がれた濃赤色のワイン。
下手な外食よりも遥かに質の高い夕食を共にしながら、あくまで雑談の体で聞いた。
「ちょっと聞きたいんだけど」
「何?」
「あの、くれた指輪って、結構高かったんじゃないかなーなんて……」
「まあ、給料四ヶ月分くらい」
「ばっ――」
ひえっ、とした悲鳴とともに「馬鹿じゃないの」と言いかけた。
何とか 堪えたが、動揺のあまりフォークに刺していたお肉が皿にぽとり、と落ちた。
飛び跳ねたソースがブラウスに付く。
「あああああ」
「何やってんだお前は……」
彼がすぐに立ち上がり、キッチンから布巾を取って私側に回った。
「触るぞ」
断りを入れてから身を屈め、染み抜きをしてくれる。
他意はないとわかっていても、間近にある彼の顔にドキドキと心臓が早鐘を打つ。
視線がぶつからないように気持ち上を向いていると、彼が「よし」と言った。
「……ありがとう」
「いや?」
テーブルに飛んだソースまで拭って席に戻った彼に、申し訳なさから詫びた。
「ごめん、汚しちゃって。総一朗、潔癖症なのに」
「別にいい。それより、お前今『馬鹿』って言いかけただろう」
「う。……だって」
給料四ヶ月分だなんて、それだけあったら海外旅行に行けるもの。
「その金で海外行けるわー、とか思ってんだろ」
「うぇ」
何でわかったの。エスパー?
顔を上げると、少しだけ目を伏せた彼が笑った。
「大体わかる」
高鳴りそうな胸を誤魔化すように、ナイフとフォークを持った。
「と、ところで……何でこんな気合い入ってるわけ? 夕飯」
問うと、彼がグラスに手をかけながら答えた。
「付き合ってから初めて家に招くんだから、それなりに気合い入れるだろ? 普通」
「は」
ナイフを引く手がぴたり、と止まった。
「……つい二日前の話だぞ。もう忘れたのか?」
「忘れるわけないでしょ」
あんな衝撃的なプロポーズ。
ただ、
俯いた私の顔を見て、何かを悟ったらしい彼が小さく息を吐いた。
「どうしてもなかったことにしたいって言うなら、今ならまだ――」
続く言葉を止めるように、手を伸ばして彼の手首を掴んだ。
ワインが、揺れた。
ただ、
どうしていいかわからなかった。
「瑞希?」
大学で出会って、同じ会社に就職して、同じ課に配属されて、飽きもせず見続けた顔。
今更何がどう変わって、どうするのが正解か、そんなの誰が教えてくれるの。
そもそも私が提案したお試し期間、女に二言はないわ。
でも、調子に乗って彼女面なんてした後に「こんなの冗談だろ?」なんてあんたに言われたら、
私は今度こそ立ち直れない。
「言わねーよ、あほか」
「ん?」
「お前テンパると全部口に出るよな、本当」
「うわっ」
一気に熱が篭って、掴んだ手首を離した。
「冗談なわけがない。ていうか、冗談言うためだけに給料四ヶ月分も注ぎ込む程馬鹿じゃない」
「そ、……うだよね」
「信用しろよ、瑞希。俺はお前に、嘘は吐かない」
射抜かれるような言葉に、私はごくり、と喉を鳴らす。
一瞬にして渇いた喉を潤すために、グラスに手を伸ばした。
それをきっかけに切り替わったように、どこか緊張に張り詰めた空気が軟化する。
私は気を取り直して、ソースに絡めたお肉を口に入れる。
ふにゃり、と頬が緩むのがわかった。
「おいしそうに食うよな、瑞希」
「実際おいしいから」
「奮発したからな」
「それもそうだけど、総一朗の味つけが好きなの。この和風だけどピリッと辛さがある感じがたまらない」
ふふ、と微笑んで顔を上げると、思わず面食らう。
「え、何」
滅多に崩れない表情が、どこか間抜けな顔で硬直している。
「……びっくりした」
低く呻くような彼の声に釣られて、私も低くなる。
「私がびっくりしてる……どうしたの?」
「突然好きとか言うな。心臓に悪い」
「はあ?」
ひっくり返ったような声が出た。
「……悪い」
バツが悪そうに彼が視線を逸らしたので、せっかく軟化したはずの空気が逆戻りする。
黙ってグラスを傾ける彼はその手が汗で濡れているのか、グラスに曇った指紋が残る。
ちょっと待ってよ、何それ。
もしかして緊張とかしてるの?
この腐れ縁の――私に。
「う、わ……っ」
気づいたら込み上げてきた。
床に着いている足が居心地悪くてジタバタしたくなる。
逃げるように両手の中に顔を埋めた。
「瑞希?」
「むりむりむり……」
「おい?」
そんなあんた見てちょっと可愛いかも、とか思ってる自分が無理。
「ぎゃあっ!」
「情緒不安定かお前は」
「だって……うぅ」
「どうしたんだよ」
「何かこう……普通の女子を相手にするみたいに真綿で包む感じ……そわそわする。……そわそわするの!」
「瑞――」
「そうじゃない。そうじゃないでしょ、私と総一朗って。もっとこう、……いいんだよ、ヘッドロックとかかましてよっ」
「やったことないだろそんなこと」
「そうだけど!」
「……ふっ」
「ん?」
聞こえた噴き出し音に、そろっと顔を上げる。
「くく、……お前……選び抜いてヘッドロックって……」
「笑うところじゃないよね?」
今は絶対、違うと思う。
「ふはっ」
ツボに入ったのか、彼が握り込んだ手を口元に当てている。
人の気も知らないで笑い倒している彼にむかついたので、彼の皿から一切れお肉を頂いた。
「自分の分残ってるだろうが」
「ふん!」
彼が、はーと大きな深呼吸をしてから、少しだけ居住まいを正した。
「……悪かったよ。変な空気にして」
「…………別に」
「これでも結構、緊張してたんだ。お試しでも瑞希と付き合えるなんて、夢みたいで」
「、は」
何だって?
「だから確かに、ちょっと気負ってた。でも一つ訂正するが……」
彼が真顔でこちらを見た。
「俺は普通の女子を相手に、こんなに優しくしない」
「へ」
「俺は潔癖症なんだろ? 普段どんな生活してるかわからないような女を家に上げて、手料理でもてなすなんて真似、お前相手じゃなかったらしない」
「……ッ」
「緊張してたし、気負ってたし……確かにそれで変な空気にしたことは謝る。……けど、無理って言うのはやめてくれ。さすがにへこむ」
「何――」
言いかけて、はっとした。
確かにさっき「無理」を連呼した覚えがある。でもそれは。
「…………そうじゃない」
ぽつり、と零れた。
「無理って言ったのは……そういう意味じゃなくて。あんたが私なんかに緊張してるから……その、何かちょっと……可愛いかもとか、思……ッ……、ああもうだからこういうのっ!」
もう限界、と顔を上げると、目の前に彼の顔があった。
驚きとともに蚊の鳴くような悲鳴じみた声を上げると、彼がその声ごと唇を塞いだ。
「…………」
散らかった脳内も、バクバクする心臓も、静まり返ったように止まった。
ただ、唇に触れた熱だけに意識が向いて、息をしているのかすらわからない。
ゆっくりと離れゆく彼が、微かに息をついた。
その吐息を耳が拾った瞬間、止まっていた時間が動き出す。
ぶわっと汗が出た瞬間、彼が私の瞳を捕らえた。
「三ヶ月、本気で攻めるから覚悟しろよ」
私は息も絶え絶えに、手の甲で口元を覆った。
「……無理」
「だから無理って言うな」
早くも泣き言を言った私を叱るように、彼が頬を抓んだ。
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