「三ヶ月、本気で攻めるから覚悟しろよ」
月曜日に彼が放った言葉を思い出すと、一気に身体が熱くなる。
手にした資料の数字が少しも頭に入ってこない。
もう月末、売り上げを詰めないといけない。
やらなければいけないことは明確なのに、脳が追いついてこない。
「……っ」
ああもう、とデスクに資料を放り出して突っ伏した。
あの日彼が言った「本気」というフレーズがあまりに強烈で、腰の引けた私は食事を終えるや否や自宅に逃げ帰った。
“彼氏”の家に招かれた “彼女”としては落第だと思う。
でも、と心の中で呟きながら、顔を上げる。
斜め前にある彼のデスクをパソコンの陰から盗み見る。
空の椅子を見て、ふいに呟いた。
「……あれ以上は心臓がもたない……」
その言葉に自分で追い詰められた。
「……うぅ」
彼の何気ない言動一つに意識して、びくびくして、逃げ回っている間に金曜日になった。
このままでは駄目なことくらいわかっている。
しかし、正面から受け止める勇気はまだ、ない。
どうしよう、と思っていると、私のデスクに影が降りた。
「ん?」
顔を上げると私の隣に三人の後輩が並んでいた。
「堂本リーダー! 今夜の合コン参加してもらえませんかっ」
「へ」
仕事中に何を言い出すのかと思って時計を見るが、きちんと昼休みに入っていた。
くるり、と椅子の向きを変える。
新卒の奥村、頼れる一番弟子の中田に、引っ込み思案な林田。
歳の離れた先輩後輩ながら、プライベートでも女子会をするくらいには上手くやれていると思う。
そんな可愛い三人娘のお願いなら、聞く耳くらい持てるというものだが、突然のお誘いは珍しい。
「どーしても人数足りなくて! 向こうは年上ばかりだし、あまり若い子だけで揃えちゃうのもどうかと思……あ、リーダーを年増扱いしてるわけじゃないんですよ!?」
ちょいちょい胸を抉ってくる新卒の迂闊さに、軽い頭痛がする。
次いで、時間や場所、相手の情報を伝えてくれる奥村の話を聞き終えて、こくりと頷いた。
「まあ別に、い」
いいよ、と言いかけて、はっとする。
慌てて口を噤み、両手を合わせる。
「ごめん、ちょっと返事待って。確認してまた連絡するね」
私は急いで席を立ち、廊下に出てから携帯を鳴らした。
二コールで出た相手に、居場所を問うた。
「総一朗、あんた今どこにいるの?」
「下のコンビニに昼飯買いに来てるけど……何かいるか?」
「ハムエッグ。……っと、私も行くからそこにいて」
「? いいけど」
「あ、何かデザートもほしい」
「はいはい」
通話を切って、エレベーターに乗り込む。
混雑した箱の中で、階数が徐々に減っていくのを見つめながら、少しだけ逸る気持ちで一階に到達するのを待つ。
同乗者を見送ってから早歩きでロビーを抜け、外に出た。
高い太陽光が照り付けて眩しい。
コンビニに向かうと、会計を終えていたらしい彼が雑誌を立ち読みしていた。
「お待たせ」
「おう、お疲れ」
雑誌を閉じて棚に戻しながら、振り返る。
「サンドウィッチとデザート買っておいた。あと、いつもの野菜ジュースな」
「完璧」
さっと財布を出すと、「いいよ奢り」と言いながら、私の背中を押した。
混み合う通路を誘導し、店の外へ出る。
「ありがとう。今度何か奢る」
頷いた彼が、小首を傾げる。
「そうして。で、何かトラブルでも?」
「あ、そうだ。えっと……」
合コンに参加してもいいですか、と聞きたい。
でも何だろう、もの凄く言い出し難い。
もごもごと言い淀んでいると、会社に戻るのとは真逆の方向に彼が足を進めた。
「え、どこ行くの」
「ん? 何か言い難そうだから、食べながら遠回りしようかと思って」
袋からおにぎりを出して、フィルムを剥がす。
さっさと歩き出す彼を、慌てて追った。
「……行儀悪いわよ」
隣に肩を並べると、彼がおにぎりを齧りながら言った。
「天気いいし、食べ歩きみたいで何かいいだろ」
「コンビニのおにぎりじゃない」
彼がふいに私を見下ろして微笑んだ。
「『何を』じゃなくて、『誰と』が重要」
直視してしまって、小さく息を呑んだ。
その甘い息苦しさから逃げるように顔を背けて、サンドウィッチを出した。
袋を解いて、一口齧る。
いつものサンドウィッチだけど、まあ確かに、
「……まずくは、ない」
野菜ジュースで一息ついてから、私はようやく切り出した。
「あのさ、さっき奥村さん達に誘われてね」
「飲み会?」
「その、……合コン」
やましいことなどないのに、妙に緊張してドキドキする。
俯いたまま、零すように言った。
「行ってきても……いい?」
「いいよ」
「えっ」
少しの逡巡もなく彼が許可を出したので、思わずぱっと顔を上げる。
しかし目の当たりにした表情を見て、怪訝に顔を顰める。
「何、その気持ち悪い顔」
「失礼だな」
「だって」
にまにま、にたにた、にこにこ。
浮かれた表情して、きもちわるい。
「おい、声に出てるぞ」
またやってしまったらしい。
しかし今回は彼が悪いと思うので、私は遠慮なく眉間に皺を寄せた。
その皺に人差し指を当てた彼が指摘する。
「お前が合コン行くのに俺の許可なんか取ったことないだろ? 俺のこと意識してくれたのかと思って、その変化にちょっと浮かれた」
「……っ」
やめてほしい。
心臓がうねるように跳ねて、痛い。
「引き留めてほしいなら期待には応えるけど、そうじゃないだろ? 合コンに参加したくらいで目くじら立てる程、心は狭くないつもり」
「あ、そう……」
さっきまでいつもの味にエッセンスが加わったくらいのサンドウィッチが、一気に甘酸っぱく感じる。
このマジック、一体何。
頬張っている間は彼から逃れられるような気がして、せっせと口に運んでいると、視界に大きな影が入る。
顔を上げると、彼が指先で頬に触れた。
「マヨついてる」
そのまま指を舐めた彼に、とうとう奇声を上げた。
「公道で叫ぶな、目立つぞ」
「誰のせいだ、誰の!」
足を止めて蹲ると、彼が少しだけ引き返して私の傍にやってくる。
「もうあんた本当何なの……私のことどうしたいの、勘弁してよ……」
「……お前を困らせようとしてるわけじゃないんだけど。ただまあ、そろそろ気づけばいいのになって思う」
「……何によ」
不貞腐れたように呟くと、彼が同じように腰を落とした気配がする。
「俺より瑞希を理解してるやつも、俺より瑞希に居心地いい空間を用意できるやつも、他にはいないってことに」
「は、」
瞳孔が開いて、そろそろと顔を上げると、彼が悠然と微笑んだ。
「どれだけいい男でも、俺より瑞希を大事にできるやつはいないって断言してもいい」
真っ直ぐに放たれた言葉がぶつかって、くらりと視界が歪んだ。
どこの自信家の台詞なのよ。
ふざけないで、って言いたいのに、
言えないのは何でなの。
「……殴りたい」
「やめて。俺、痛いの嫌い」
「ほんと腹立つ」
「よし仲直りしよう」
すぐさま手を出してくる彼を睨む。
しかし、彼は笑顔を浮かべたまま顎をしゃくった。
その手に重ねて、引き上げられるままに立ち上がる。
ふわり、と起き上がった身体のように、心も軽やかに浮いた気がした。