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芙月みひろ
#裏切り
537
目的地のカフェは、
昼前の光が静かに差し込んでいた。
店内に入ると、
窓際の席がひとつだけ空いていた。
僕は軽く手で示す。
「……ここ、座れそうです。」
有莉澄さんは
小さく頷いて席に向かう。
向かい合う席ではなく、
横並びの二人席だった。
一瞬だけ、
ふたりの足が止まる。
でも、
どちらも席を変えようとは言わなかった。
自然に、
横に並んで座る。
距離は近い。
触れないけれど、
意識すれば分かるほどの近さ。
メニューを開く指先が、
ほんの少し震えていた。
緊張ではなく、
温度のせいだった。
「……何にしますか。」
そう言うと、
有莉澄さんは
メニューを見つめたまま答える。
「先輩が頼むものに……合わせます。」
その言い方は、
遠慮ではなかった。
ただ、
一緒に選びたいという温度だった。
僕は
ページを指で軽く押さえながら言う。
「じゃあ……これ、どうですか。
飲みやすそうで。」
有莉澄さんは
横目でそっと覗き込む。
距離が、
また少しだけ近づく。
「……いいと思います。
先輩が選んだの、飲んでみたいです。」
その言葉に、
胸の奥が静かに揺れた。
注文を終えると、
ふたりの間に
短い沈黙が落ちた。
でも、
その沈黙は重くなかった。
むしろ、
言葉を探す時間が
自然に共有されていた。
少しだけ横を向く。
有莉澄さんは
膝の上で指を組み、
視線を落としていた。
けれど、
その表情はどこか柔らかい。
「……来てくれて、ありがとうございます。」
僕がそう言うと、
有莉澄さんは
ゆっくりと顔を上げた。
「こちらこそ……
先輩が誘ってくれて、嬉しかったです。」
声は小さいのに、
言葉の端に確かな温度があった。
景兎は
その温度を受け取るように
短く頷く。
「話したいことがあって……
でも、こうして会って話せるのが
いちばん嬉しいです。」
有莉澄さんの指が
膝の上で少しだけ動いた。
迷うように、
でも逃げるようではなく。
「……私もです。
先輩と話すの、
ずっと……楽しみにしてました。」
その“ずっと”は、
大きくないのに、
胸の奥に深く落ちた。
ふたりの視線が
一瞬だけ重なる。
その一瞬が、
今日いちばん近かった。
触れない距離なのに、
触れたような温度があった。
飲み物が運ばれてきても、
ふたりはすぐには手を伸ばさなかった。
言葉よりも、
沈黙のほうが
距離を深めていた。