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芙月みひろ
#裏切り
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飲み物の湯気が、
ふたりの間に静かに揺れていた。
カップに手を伸ばすと、
有莉澄さんも同じタイミングで手を伸ばした。
触れない距離なのに、
動きが重なる。
ふたりとも、
少しだけ目を伏せる。
沈黙が落ちる。
でも、重くはない。
言葉を探す時間が
自然に共有されていた。
僕はカップの縁を指で軽くなぞりながら口を開く。
「……話したいことがあって。」
有莉澄さんは
姿勢を少しだけ正した。
緊張ではなく、
聞く準備をするような動き。
「はい。」
声は小さいのに、
その一言に
確かな温度があった。
僕は
言葉を急がなかった。
急ぐ必要がなかった。
「前に……
距離ができてしまった時期があって。」
有莉澄さんの指が
膝の上でわずかに動く。
でも、逃げるようではなかった。
「……はい。」
僕は
視線を落としたまま続ける。
「でも、
あの時のことを
“なかったこと”にしたいわけじゃなくて。」
有莉澄さんが
ゆっくりと顔を上げる。
その目は、
責めるでもなく、
探るでもなく、
ただ、受け取る準備をしていた。
その視線を一度だけ受け止めて、
僕はまたカップに視線を戻す。
「……ちゃんと話したいと思ってました。
前みたいに、じゃなくて。
今の距離で。」
有莉澄さんの呼吸が
ほんの少しだけ深くなる。
「……私もです。」
その声は、
小さいのに、
胸の奥に静かに落ちた。
僕は
その言葉を受け取るように
短く頷く。
「ありがとう。」
有莉澄さんは
視線を落とし、
指先でカップの取っ手をそっと触れた。
「先輩が……
そう言ってくれたの、嬉しいです。」
その“嬉しい”は、
甘さではなく、
静かに深まる温度だった。
ふたりの間に
また沈黙が落ちる。
でも、
さっきまでの沈黙とは違った。
言葉にしなくても、
距離がひとつ深まったことが
はっきりと分かる沈黙だった。
窓の外の光が
ふたりの間に落ちる。
その光の中で、
僕はゆっくりと息を吸った。
「……続き、聞いてくれますか。」
有莉澄さんは
迷いなく頷いた。
「はい。
聞きたいです。」
その一言が、
今日いちばん近かった。