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まさか、こんなにも早く……。
──岡崎。
それは、月子親子の旧姓だった。
西条家に入ることで、二人は、この苗字を手放した。
それなのに、母は、看護婦に岡崎と呼ばれている。
つまり、西条から岡崎へと戻ったということで、佐紀子は言った事を忘れていなかった……。
母は、西条家の戸籍から抜かれてしまったのだ。それも、数日の間に。
言われていた事とはいえ、余りにも急な話だった。
一体何なのだろうと、月子は動揺しきり、涙は止まることを知らない。
「……余計な事を尋ねてしまったか。言いたくなければ、別に構わん。誰しも、聞かれたくない事はあるだろう」
頭上から、岩崎の遠慮がちな声がした。
月子が涙顔のまま見上げた先には、人力車で見た端正な横顔があった。
岩崎は、どこか物思いにふけるかのように、月子の母の部屋であろう、入り口ドアを見ている。
「……構わんか?」
それだけ言って、失礼しますと、部屋の中へ声をかける。
ドアの向こうから、小さく、はい、と返事がする。
月子の聞き慣れた母の声だった。
部屋へ入ると、小さな窓が、換気の為か開け放されている。
外の冷えた空気が、まともに流れ込んで、流石に肌寒いのだろう。ベッドに横になっている母は、掛け布団の上に、身にまとって来た大島の着物を重掛けていた。
「何か羽織るものを……持ってくればよかったね……」
うっかりしたと顔を歪ませる月子に母は、あら、大丈夫よと、何ともない素振りを見せる。が、言いながら、瞳を大きく見開いた。
「つ、月子、どうしたの?!」
母の視線は、月子の足に巻かれた木綿布《ほうたい》に、留まっている。
「あ、これは……」
「申し訳ありません。お嬢さんは、足を挫いて……よろけた所を、助けようとしましたが、間に合わず……」
岩崎が、月子の言わんとすることを続けた。
そうですか、と、言いつつ、母は、ふと、不思議そうに岩崎を見る。
「あ!母さん!これは!」
月子は、岩崎に抱き抱えられていることを思い出す。
そして、大丈夫ですからと、岩崎へ降ろしてくれと懇願した。
眉をしかめつつ、岩崎は、ぐるりと部屋を見渡すと、ベッドの側に置いてある丸椅子に月子を座らせた。
「……月子、もしかして、そちら様は……」
「あっ、えっと、あの……」
素直に見合いの相手だと母へ言うべきか。
そもそも、見合い、というより、次から次へ人が現れ、ワイワイ言った挙げ句……どうなったのか?
田口屋の二代目は、同居しろと言い、岩崎も、先ほど、同居人とは言ったが、こちらは、どう考えても行き掛かり上、いわば、適当に流した様に思えた。
結局、岩崎とは、どうなるのだろう。
母へ説明する前に、月子自身が説明して欲しかった。
そんな、まごまごしているそばから、岩崎の大声が、響き渡った。
「あっ!いや!これは!失礼しました!私は、岩崎男爵家の次男。岩崎京介と申します。縁あって、お嬢さんと、見合いめいた事をいたしました」
「……男爵様!!」
母は、慌てて起き上がろうとしたが、咳き込んでしまう。
「ご無理なさらずに……そのままで」
岩崎が、労りの言葉をかける。
「あ、あの!換気してます!だ、大丈夫です!」
母が、咳き込むと、散々、病が移ると言われて来た。その、経験から、月子は、岩崎を安堵させようと声を張り上げた。
「ん?心配無用だ。昔は療養所《サナトリウム》に、良く演奏に赴いたものだ。病には、慣れている」
言って、岩崎は、月子を安心させようとしてか、大きく頷く。
「……演奏?」
「バタバタして、私の事を語っていなかった。母上へも、お知らせしないと、後納得いかないだろう……」
そこまで言うと、岩崎は、ビシリと背筋を伸ばし、一礼すると、自身の事を語り始めた。
月子親子は、まさに開いた口がふさがらない。
男爵家の人間というだけでも、雲の上の人なのに、聞かされた岩崎の身分というべきか、経歴は、とてつもないものだったからだ。
岩崎は、欧州《ヨーロッパ》で、音楽を学び、帰国後、新設された、神田にある私立の音楽学校で教鞭をとっているという。
「ピアノと弦楽器、及び、作曲学を教えています」
さらりと言ってくれるが、月子親子には、縁遠い世界の話で、訳が分からず。ただ、黙って岩崎を見つめるしかできなかった。