男は、月子を背負ったまま、すたすたと、迷いなく歩いている。
月子は、ふと思う。
行き先の住所を書いた紙を一度見ただけなのに、と。
まるで、神田界隈の地図が頭のなかに入っているかのように男は、目的地へ歩んでいる様に思えた。
確か、同じ方面へ向かう所だったとは言っていたが、それにしても……ここまで、すんなり行きつけるものなのだろうか?
先ほどの勢いは、どこへいったいのか、男は、押し黙ったまま進んでいる。
途中、路地へ入り、幾度か曲がりと、余りにも、勝手を知り過ぎている動きを、月子は不思議に思った。
そうこうするうち、男が、歩みを止める。
「……ここで、構わんかね?」
「え?」
前には、板塀に囲まれた小さな家があった。
「ここが、君の目的地、神田旭町の岩崎家だが?」
言うように、門柱には、岩崎と書かれた古びた表札がかかっている。
どら、と、男は言うと、月子を背負い直し、そのまま、門を潜った。
思えば、月子を背負ったまま、男は歩き続けている。それなり、体に負担がかかっているはずだ。
「あ、あの、お、降ります。こちらなら、ここで、私は……!」
おろおろしながら、月子は、男へ言うが、何故か、男は聞く耳を持たず、そのまま、家の玄関口へ歩いて行った。
「……まったく、人の家をなんだと思ってるんだ。また、勝手に入り込んでるな」
何かの合図のように、少しばかり、開かれている玄関のガラス戸を見て、男は悪態をついている。
「あ、あの!わ、私!」
月子は、慌てた。
男が、月子を背負ったまま、玄関のガラス戸を器用に開けたからだ。
そして、そのまま、家へ踏み込み、月子を玄関框へ下ろした。
よそ様の、それも、始めて訪ねて来た家の玄関框に腰を下ろしている状態に、月子は、面食らい、慌てて立とうとする。
「その足で、急に立つのは、危ない」
「え?!あっ、で、ですが!お家の方に、ご挨拶を!勝手に玄関に入っては!」
「家人が、許可しているんだ、気にすることはなかろう」
「え……?」
確か、今、男は、家人と言った……のだが……。
「あー、神田旭町の岩崎京介は、私、だ」
どこか、面映ゆそうに言う男をみて、月子は、胸元から、行き先が書かれた紙を取り出した。
神田、旭町、岩崎家、岩崎京介──。
確かに、男が、言った通りの言葉が、書かれている。
と、言うことは……。前にいる人物が……。
「なにやら、事情がありそうだったし、君も足を挫いていたし、路上で話すには、と、思って、連れてきた」
「え、あ、あの?!そ、それじゃあ……」
「見合い……なんだろ?」
「は、は、はい」
何がなんだか、訳が分からず、月子は、男──、岩崎とやらの問に、返事をしていた。
すると。
「え?!京さん、見合いって?!なにそれ?!というか、やっと、見合いするのかい?!」
手前の部屋の障子が開き、若い男が、ひょっこり顔を覗かせた。
「……兄上の差し金だろうが……と、いうより、二代目、お前、また勝手に上がり込んで!人の家をなんだと思ってるんだ!」
「あれ?女中を頼むってことだったから、ここで、待ち合わせ。それに、俺、大家だし、合鍵あるから、入れるし」
若い男も負けずと、言い返しているが、
「あっ!もしかして、あんた、お咲ちゃん?」
月子に気がついたようで、何故か、若い男は、声をかけてくる。
「……ん?君、そうなのか?見合いの手伝い……ではなく?」
「京さん、何、言ってんの?」
ここの主、岩崎と、部屋から顔を覗かせている若い男とのやり取りに、さて、どう答えてよいのやらと、月子は、呆然と框に腰かけているしかなかった。