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二人の騎士が再び尖塔を訪れてから、五日が過ぎた。村は、怖いくらいに穏やかだった。咳き込む老人は消え、諍いの声はなく、畑では瑞々しい緑の芽が、土を押し上げるようにして力強く伸びている。湿り気を帯びた風が、濃厚な若草の匂いを運んでくる。生命の力が溢れすぎているような、息苦しいほどの平穏だった。だからこそ、人々は確信してしまったのだ。あの少女なら、何をしても許されるのだと。
夜明け前、まだ世界が深い青に沈んでいる刻、尖塔の扉が叩かれた。音は控えめだったが、そこにはもう、以前のような遠慮はなかった。ソラスが重い扉を開けると、そこには一人の若い父親が立っていた。腕の中には、小さな娘を抱いている。少女の顔色は白く、陶器のように冷たそうだったが、呼吸だけは静かに整っていた。
「目が……見えなくなってしまって」
消え入りそうな声の懇願。
「熱があるわけではないんです。どこかを痛がっているわけでもない。ただ、朝起きたら、何も見えないと……」
少女は、瞬きひとつしなかった。瞳は開いているのに、そこには光も、目の前のソラスの姿も、何ひとつ映っていない。
「医師には、様子を見るしかない、と言われました」
父親が祈るように歯を食いしばる。
「でも、ソラス様なら。貴女なら、何とかしてくださると思って」
その言葉を聞いた瞬間、ソラスの胸を、嫌な予感がかすめた。それは今まで癒してきた傷や病とは、手触りが違っていた。命が削れているわけでも、何かが壊れているわけでもない。けれど、何かが欠け落ちているような、奇妙な感覚。
「私は」
断ろうとした。唇を噛んで、喉まで出かかった言葉を飲み込もうとした。だが、その時。少女が、探るように小さく首を傾げた。
「おねがい」
たった一言。その掠れた声が、あまりにも、幼い頃のユイスの声に似ていた。思わずソラスは、逃げるように視線を逸らしながら、
「……祈るだけ、です」
言ってしまった。その行動が、どんな波紋を広げるかも知らずに。
⬛︎
尖塔の一室。窓の外から、鳥たちの囀りが礫のように降り注いでいた。ソラスは少女の前に静かに膝をつき、意識を集中させる。彼女の周りを、黒猫が落ち着かない様子で、円を描くように歩き回っていた。
大丈夫。今までだって、みんなを笑顔にしてきたのだから。自分に言い聞かせ、ゆっくりと息を吸う。次の瞬間、唄が自然と唇から溢れ出した。
「『閉じた扉に 鍵はなく
探す者の手が 道を作る
目を閉じるなら 夜は終わる
朝は、そこに――』」
最後の音が部屋の空気に溶け込んだ瞬間。少女の瞳が、意志を持ってゆっくりと動いた。
「……見えるか?」
震える声で尋ねる父親は、今にも泣き出しそうな顔をしている。すると少女は、花がほころぶように、にこりと笑った。
「うん。見えるよ」
その場にいた誰もが、深い安堵の息を吐き出す。ただ一人、ソラスを除いて。
世界が、鮮明すぎた。あまりにも多くの情報が、少女の視界に流れ込んでくる。色はより深く、光はより鋭く。少女は突然、悲鳴を上げて目を覆い、その場に蹲った。
「まぶしい……! こわい、何かがいっぱい入ってくる!」
それは視界だけではなかった。彼女には、見えすぎていたのだ。壁の向こうを這う虫の羽音。地面の下を流れる水脈のうねり。そして、父親の胸の奥にある、喜びと欲望が混ざり合った濁った感情。
「止めて……! 聞こえるの……みんなの、こえ……!」
父親が慌てて抱き寄せるが、少女は耳を塞いで震え続ける。その小さな器に、あまりにも巨大すぎる力が注がれていた。ソラスは、血の気が引いた顔で立ち尽くした。
ーーやりすぎた。
だが、どうやって戻せばいいのか、分からない。唄を止めても、少女の中に根付いた”奇跡”は、もう彼女の手元を離れていた。腕を組むユスティナが、忌々しげに歯噛みする。
「これは……治癒じゃない」
「才能の”付与”だ」
その先を続けるフラスニイルの声が、冷たく響いた。
「人が背負えるはずのない、重すぎる才能だ。一度与えられたものは、もう戻せない」
父親は混乱しながらも、娘をきつく抱きしめた。その瞳には、恐怖を塗り潰すような、狂信的な光が宿っていた。
「でも……見えるようになったんですよね? これであの子は、救われたんですよね?」
ソラスは何も答えられなかった。その夜、村には噂が風よりも早く広がった。
「見えなかった子が、すべてを見通す力を授かった」
「ソラス様は、望めば何でも与えてくださる」
「なら、うちの子にも。もっと特別な力を」
「商売がうまくいく、賢さを」
翌朝になると、尖塔の前には蛇のように長く、どこまでも続く列ができていた。足元で黒猫がソラスの腕に鋭い爪を立てた。チクリ、とした痛みが走る。けれど、押し寄せる人々の熱い視線に、彼女の心は次第に麻痺していく。
みんな、喜んでくれる。救えて、良かった。
その時にはもう、断るための言葉を彼女は失っていた。降り注ぐ陽光はどこまでも明るく、残酷なほどに美しい季節だった。
⬛︎
ユイスは、尖塔の二階へと続く半開きの扉の向こうから、その光景を静かに見ていた。石畳を叩く足音が聞こえ、村人が一人、塔を訪れる。
それから、また一人。そして、もう一人。
窓から差し込む光に照らされた彼らは、驚くほど同じ顔をしていた。眉をひそめて困り果てた顔。そして最後には、神に縋るような、湿り気を帯びた顔。ソラスは、その一人一人に、淡々と、けれど丁寧に接していた。
否定はしない。拒みもしない。本当にそれでいいのかと、問い返すこともしない。ただ、相手の言葉を静かに聞き、少しだけ考え、そして――朝の光のような微笑みを浮かべる。
「……それなら、出来ると思います」
その声が空気に溶けた瞬間、ユイスは扉の取っ手から力を抜いた。外は生命の息吹に満ちているというのに、胸の奥だけが、薄氷が張るように冷えていく。
ああ。もう、終わったんだ。
彼は鮮明に覚えている。初めてこの塔で、名前もない頃の彼女と出会った日のことを。いつも誰かの顔色を窺い、少し声を荒げられただけで肩を震わせて、ごめんなさいという言葉を、お守りのように繰り返していた少女のことを。今、階下で人々に囲まれているのは、別の”何か”だった。
同じ声をしている。 同じ顔をしている。 同じように優しく微笑んでいる。 けれど、その器を満たしている中身が、もう決定的に違っていた。
村人が満足げに去った後でソラスは、ふう、と小さな吐息をつき、階段を上ってきた。いつもの軽やかな足音が、古い石段に響く。
「あ、ユイス」
彼女は、何でもないことのように言った。
「見てた?」
「……見てたよ」
ユイスは壁に背を預けたまま、動かなかった。その表情は凪いでいた。怒りも、悲しみも、すべてを燃やし尽くした後の灰と同じ静けさだった。
「ねえ、ソラス」
彼は、湿った風に言葉を乗せるように言った。
「さっきの子、どうなると思う?」
「……あの子?」
ソラスは小首を傾げ、少し考えてから答える。
「剣の才能があるみたいだったから。少しだけ、身体の動きを整えてあげたの。周りの大人たちがちゃんと導いてあげれば、きっと大丈夫」
「誰が導くんだ?」
「……たぶん、村の人たちが。みんな、あの子に期待していたし、きっと大丈夫」
ユイスは、笑った。喉の奥で鳴った、乾いた、音のない笑いだった。
「それを、“大丈夫”って言うんだね」
「ユイス?」
不思議そうに首を傾げる少女。その仕草があまりにも、かつてのソラスのままで――ユイスは、言葉にできない絶望を理解してしまった。 自覚がない。自分が、世界をどれほど歪めているのか。
「ねえ、ソラス」
彼は、言葉を確かめるように選ぶ。
「君はさ。彼らを助けているつもりなんだよね」
「うん」
「善意で?」
「……もちろん。喜んでもらいたいから」
即答だった。淀みも曇りもない。だからこそ、ユイスは、これ以上言葉を重ねる意味を失った。
「君は、もう“断る”という選択肢を持っていないんだね」
「え?」
「昔の君なら、どんなに小さなことでも、震えながら迷ってた。そんな資格があるのかって」
ソラスは、少し困ったように眉を下げて笑う。
「だって……今は、出来るから。助けてあげられる力が、あるから」
その一言が鋭い刃となり、ユイスの胸を突いた。彼の中で信じた何かが、音を立てて折れた。
「出来るから、やる。頼まれたから、応える。嫌われないために、やるんじゃないんだね」
静かに、宣告するように彼は言葉を吐き出す。
「支配だよ、それは。無意識の、暴力だ」
ソラスの瞳が、初めて不安げに揺れた。
「そんなつもり……ない。私はただ」
「分かってる。分かってるよ」
ユイスは、深く頷いた。
「怖いんだ。君に悪意がないことが、何よりも」
沈黙が落ちた。塔の外からは、若葉の匂いを孕んだ風に乗って、子供たちの笑い声が聞こえてくる。眩しすぎる、残酷なほど明るい午後だった。
「ソラス」
ふとユイスは、彼女に背を向けた。
「お互い、当分、関わらないようにしよう」
「……え?」
彼女の声が、微かに震える。
「どうして? どうして、そんなこと……」
彼は、振り返らなかった。
「君を止められないから。止めるには、剣か、鎖か、憎しみが要る。でも僕は、君を――」
導かれる言葉が、喉の奥で震えた。代わりに、彼は地を這うような低い声で言った。
「まだ、好きなんだ」
だからこそ、距離を置く。それが、彼に残された最後の誠実さだった。
「……戻ってきて、くれないの?」
背後から聞こえるソラスの声は、消え入りそうなほど小さかった。扉に手をかけると、ユイスは一度だけ立ち止まった。
「”お願い”を断れるようになったら。その時は」
しかし、一度も振り向かなかった。
「また、昔みたいに話そう」
ばたん、と扉が閉じる。鍵はかけられなかった。それでも二人の間には、物理的な壁よりも深く、遠い遠い距離が生まれていた。
ソラスは、一人、広々とした部屋に立ち尽くす。窓から濃厚な緑の気配をまとった風が吹き込み、彼女の銀髪を揺らした。胸の奥に、名前のつかない巨大な空洞が空いたようだった。その夜、彼女は初めて――誰のためでもない、自分だけの唄を、どうしても歌い出すことができなかった。