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#🌀🌧️⚡️
低気圧
42
2,687
最初に気づいたのは、朝の水やりを担当していた職員だった。
天灯共同医療福祉院、人外由来魂支援棟。
植物魂日照庭の一角に、その魂はいる。
人の姿は持たない。
地へ根を張り、細い幹を伸ばし、幾重もの葉を広げている。
名もない。
言葉もない。
歩くことも、手を伸ばすこともできない。
だが、ここへ来てからずっと生きている。
朝になれば葉を開き、日が傾けば少し閉じる。
水を好む日は根元の土香が柔らかくなり、十分なら葉先はほとんど動かない。
風の強い日は細い枝を固くする。
静かな日は、葉がゆっくりと揺れる。
それが、この魂の言葉だった。
「……あれ?」
職員は、水差しを持ったまま足を止めた。
昨日も見た。一昨日も見た。毎朝、同じ時間にここへ来ている。
だからこそ分かった。
「青が……薄い?」
葉を一枚、近くから見る。
枯れてはいない。黄色く変色してもいない。萎れてもいない。葉脈も保たれている。
ただ、いつもより少しだけ、青さが薄い。
職員は手を伸ばしかけ――止めた。
不用意に葉へ触れない。
代わりにしゃがみ込み、根元の土を見る。
乾いていない。給水記録にも異常はない。日照時間、問題なし。土香、目立った乱れなし。香粉飛散、増加なし。周囲の植物魂との配置変更、なし。
もう一度、葉を見る。
風が吹く。周囲の植物が揺れた。その魂も揺れた。
けれど、ほんの少しだけ、遅かった。
*
「汀生さん、少しいいですか」
調律福祉部へ来た職員は、記録板を抱えていた。
汀生は調律弦を整えていた手を止める。
「どうしたんだい」
「植物魂日照庭の子なんですが……最近、青さが薄い気がするんです」
記録板が差し出される。
「枯れてはいません。葉も落ちていない。水も日照も規定内です。土香も確認しました」
「いつから?」
「はっきり気づいたのは今日です。でも見返すと、三日ほど前から少しずつ」
汀生は頁をめくった。
朝の葉開き、前日比やや遅延。風への反応、微弱。夕刻の葉閉じ、通常。給水後の根香、通常。
「病気でしょうか」
「それは俺が決めることじゃないね」
汀生は記録板を閉じた。
「身体的な異常が疑われるなら、医療側にも確認してもらおう。ただ、その前に一度会ってみたい」
「調律ですか?」
「まだ、しないよ。まず聴くだけだ」
*
日照庭には、午後の柔らかな光が差していた。
問題の植物魂は、いつもの場所にいた。根を張ったまま、何も言わず、何も求めず、ただそこにいる。
汀生は少し離れた場所でしゃがんだ。
「こんにちは」
返事はない。当然だった。汀生も返事を待たない。
葉を見る。幹を見る。土を見る。それから、目を閉じた。
風が通る。葉擦れの音がした。右から左へ、何枚もの葉が重なり、小さな波のような音を作っていく。
その中に、一つだけ。遅れて鳴る音があった。
汀生は目を開けた。
「……もう一度、風を入れてもらえる?」
職員が風香板を調整する。弱い風が流れた。
さわ。さわさわ。
やはり、一つだけ遅い。
汀生は調律弦へ指を置いた。
「鳴らしてもいいかい」
植物魂は動かない。汀生は待った。五秒、十秒、十五秒。
やがて、一枚の葉がゆっくりと開いた。
「ありがとう」
細い弦が、一音だけ鳴った。高くも低くもない、庭の中へ溶けるような短い音。
周囲の葉が微かに震えた。問題の植物魂だけは、動かなかった。
汀生はもう一度鳴らす。今度は少し低く。
葉先が揺れた。
「これなら聞こえる?」
もう一音。根元の土香が、ごくわずかに沈んだ。
隣の職員が息を呑む。
「反応しました」
「うん」
汀生はそれ以上、音を重ねなかった。
しばらく待つと、植物魂の葉が一枚、また一枚と、ゆっくり下を向いていった。
「……弱っているんでしょうか」
「分からない」
「でも――」
「下を向いたから、苦しいとは限らないよ」
汀生は静かに植物魂を見る。
「人なら泣いているように見える。動物なら伏せているようにも見える。でも、この子は植物だ。人の意味を急いで載せない方がいい」
職員は黙った。
汀生は土の上へ手を置いた。根が広がっている場所から少し離れた土へ、指先を軽く。
「……ここ数日、何か変わったことは?」
「ありません。水量も、日照も、担当も――」
職員の声が止まった。
「どうしたの?」
「……夜間担当が変わっています。四日前です」
青さが薄くなり始めた頃と重なる。
「前の担当者は?」
「天灯院の別区画へ異動しました」
汀生は植物魂を見た。
「その人は、夜に何をしていた?」
「特別な処置はしていません。見回りをして、水量を確認して……」
職員が、また止まった。
「あ。……歌っていました」
汀生が顔を上げる。
「歌?」
「小さい声で。本人は独り言みたいなものだと言っていました。植物魂に聞かせていたわけじゃなくて、夜間記録を書きながら、いつも同じ歌を」
汀生は植物魂へ視線を戻し、調律弦へ指を置いた。先ほどと同じ低い音を、一つ。
葉が動く。もう一つ。また動く。
「……なるほど」
「寂しいんでしょうか」
「それも、まだ決めない方がいい」
葉擦れを聴く。
「歌が必要だったのかもしれない。声の振動が好きだったのかもしれない。夜の時間を測る音にしていたのかもしれない」
あるいは。その人が来ることそのものを、待っていたのかもしれない。
けれど、それを本人は言えない。だから汀生も、言葉にしなかった。
「前の担当者に戻してもらいますか?」
「それも急がなくていい」
汀生は立ち上がった。
「まず、夜に音がある環境へ戻してみよう。ただし、その人の代わりを作るつもりではなくてね」
「同じ歌を?」
「知らない歌を真似する必要はないよ」
汀生は小さく笑った。
「この子が必要としているのが歌なのか、人なのか、それとも夜に繰り返される何かの響きなのか。そこから確かめよう」
*
その夜。植物魂日照庭に、低い音が一つ置かれた。
汀生は少し離れた場所に座っている。演奏はしない。華やかな曲も弾かない。ただ一定の間隔で、一音だけ鳴らす。
音。沈黙。音。沈黙。
最初のうち、植物魂は何も変わらなかった。十回、二十回。
汀生は急がない。言葉を持たない魂には、言葉を持つ者の時間を押しつけない。
三十回目の音が消えた頃、葉が一枚開いた。
汀生は弦から指を離し、次の音を鳴らさず待った。
すると、もう一枚。さらに一枚。夜の中で、ゆっくりと葉が開いていく。
昼ほどではない。完全でもない。それでも、青の薄くなっていた葉の中央に、ほんのわずかに濃い色が戻っていた。
*
翌朝。記録板には、こう残された。
《夜間、一定間隔の低音刺激に対し葉開き反応あり》
《根香沈静を確認》
《翌朝、葉色に微弱な回復傾向》
《現時点で原因を情緒反応と断定しない》
《夜間環境変化との関連を継続観察》
そして、その下に。
《言語応答なし》
《ただし、応答なしとは記録しない》
朝の職員が、その一文を読んだ。目の前では、植物魂が朝日を受けている。
昨日より、本当に、ほんの少しだけ青かった。
「……おはよう」
職員が声をかける。返事はない。それでも職員は、水を置いてすぐには立ち去らず、少しだけその場に座った。
風が吹く。葉が揺れる。昨日より、少し早く。
さわ、と音がした。
それが何を意味したのか、誰にも分からない。
だから天灯院は、その音を勝手に言葉へ変えなかった。
ただ、今日、この魂の葉が昨日より青かったことだけを、記録に残した。
コメント
1件
うわあ……すごく静かで、それでいてものすごく深いお話でした。 植物魂の“青さが薄い”って、人間で言うと顔色が悪いとか元気がないとか、そういうのと同じなんだろうなって思ったら、すごく切なくなりました。でも汀生さんが「人の意味を急いで載せない方がいい」って言ってたのがすごく大事で、ちゃんとその魂のペースで向き合おうとしてるのが伝わってきました。 夜の音に反応して葉が開いて、ほんの少し青さが戻るっていう描写が美しすぎて、何度も読み返しました。言葉にできない存在が、音や振動でちゃんと応えてるって、すごく尊いなって思います。 「応答なしとは記録しない」って一文、すごく好きです。Hp2さんの優しさが詰まったお話でした🌙🤍