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第8話:ふたつの足音
西陽が差すころ、私はまた祖父の家へ向かった。
この道も、何度目になるだろう。
物置に入ると、畳の上に置かれた本は、今日も同じように待っていた。
表紙を開き、ページをめくる。
「きみの あしおとは かるかった」
「あのひとの あしおとは ずっと おもかった」
その言葉に、息を呑んだ。
音が違ったのだ。
祖父は、私と祖母の足音を聞き分けていた。
私——ユイの足音は、バタバタと軽く、靴下のまま走るからよく滑っていた。
短い髪が跳ねて、リュックを背負ったまま廊下を飛び回っていた。
祖母は、いつもゆっくり歩いていた。
すべらないように布底の足袋を履き、着物の裾が揺れるたび、廊下の木がきしむ。
その音は決して大きくはない。
けれど、祖父の心の中では、確かに“重く”響いていたのだろう。
*
ページをめくると、文字はつづく。
「きみのあとに あのひとのおとが つづくときがあった」
「そのとき わたしは いつも にげばを かんがえていた」
逃げ場。
祖父が“逃げたい”と思っていたことを、私は今初めて知った。
思い返すと、祖父はよく裏庭にいた。
土をさわり、木の枝をいじり、道具箱の中を整理し、何かにかこつけて屋内から離れていた。
祖母の姿はいつも背筋が伸びていて、にじむような圧をまとっていた。
濃い灰色の着物を着こなし、唇には色味がなく、それなのに目だけは鋭く動いた。
話し方はおだやかでも、返す言葉を選ばなければならない。
祖父はそれを、もう“学習してしまっていた”のだ。
次のページに、こうあった。
「なにかを されたわけではない」
「でも こわかった」
誰にも語られなかった恐怖。
それは“暴力”ではない。ただ、気配と沈黙の積み重ねだった。
祖父は、音にさえ怯えていた。
*
ふと、風が吹きぬけてふすまが少し揺れた。
私は肩をすくめ、本を閉じようとする——
だが最後のページに、ふっと文字が浮かんだ。
「おとが しないときのほうが もっとこわかった」
無音。
祖母が怒るとき、声を上げることはなかった。
ただ“沈黙する”。
それだけで、家の中の空気が凍る。
*
その夜、私は夢を見た。
祖父が長い廊下を歩いていた。
私も少し離れてついていく。
背中が小さく見えた。
足音は、ふたつ。
祖父の、そして——私の。
でも、途中で気づく。
私が止まっても、足音が消えない。
振り返ると、廊下の奥に、影が立っていた。
その影は音を立てず、ただじっと、こっちを見ていた。