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みんな思い思いの料理をトレイに乗せ、テーブルを囲んで賑やかに食事を楽しんだ。
温泉旅館の夕食は、やはり格別だ。
ヒートの影響か、食欲はそこまでなかったが、それでも美味しい料理を少しずつ味わうことができた。
夕食を終え、部屋に戻ってきた俺たちは持ち込んでいた酒とつまみで部屋飲みを始めることにした。
将暉さんと仁さんがコンビニで買ってきたらしい缶ビールやチューハイ
それにつまみがテーブルに所狭しと並べられる。
「さーて、今日は飲むぞー!」
将暉さんがグラスにビールを注ぎながら言うと
瑞希くんも楽しそうに自分の好きなチューハイを開けた。
部屋中にカシュッと軽快な音が響き渡り、楽しげな雰囲気が広がっていく。
俺も自然と手が伸び、レモンサワーの缶を掴もうとしたその時だった。
仁さんの手がスッと伸びてきて、俺の目の前にあった缶ビールを掴んだ。
その指先が、一瞬俺の指に触れたような気がして、微かな電流が走る。
「楓くんはヒートなんだから今日はお酒禁止な」
仁さんの低い声が、有無を言わせない圧を含んでいた。
「そ、そんなぁ…!」
思わず口から零れたが、仁さんの目は真剣そのものだ。
薬でヒートは抑えているものの、体調が万全ではない俺を気遣ってくれているのだろう。
その真っ直ぐな優しさがじんわりと胸に染みる。
さっきから、仁さんの行動一つ一つにドキドキさせられている。
これは「心配されている」という喜びなのか
それとも別の何か、まだ名前もつけられない感情なのか俺にはまだわからなくて
仕方なく、テーブルに置いてあったコーヒーを大人しく手に取った。
俺だけコーヒーを飲むという、なんだか締まらない部屋飲みになりそうだ。
将暉さんと瑞希くんが今日のスケートや明日の予定について楽しそうに談笑している中
俺は熱いコーヒーをゆっくりとすすった。
カップの温かさが、手のひらにじんわりと伝わってくる。
だけど、落ち着いてるようで心の中はぜんぜん落ち着いてなかった。
身体はもう平熱に戻っているはずなのに、顔はなぜかまだ熱い。
目の前のコーヒーカップから立ち上る湯気を見つめながら、俺は内心で混乱していた。
なんかこう、変だ。
隣にいる仁さんの匂いが、やたらと気になる。
シャンプーの香りだろうか、それとも柔軟剤か
それとも仁さん自身の匂いなのか。
どれもが混ざり合って、なぜか俺の意識を惹きつける。
ちゃんと薬も飲んだし、もう落ち着いてるはずなのに
仁さんのちょっとした仕草や、グラスを持つ指先
時折聞こえる低い声のトーンひとつひとつが
なんかこう……くすぐったい。
体が勝手に反応してしまう。
この変な感覚の理由が、どうしてもわからない。
気づけば俺は、グラスを持つさんの指先から
その腕、そして逞しい肩を辿り、彼の横顔を眺めていた。
顎のライン、少し伸びた襟足
怖面なのに、誰よりも優しい瞳…….
そんなことを考えていたとき
瑞希の鋭い声が、ぴしゃりと飛んできた。
「さっきから思ってたけどさ。あんた、犬飼のこと見すぎじゃない?」
ピタリ、と時が止まった。
瑞希くんの言葉が、部屋の中に響く楽しい会話の音を一瞬でかき消したような気がした。
「え……?」
瑞希くんの方を見ると、チューハイ片手に、じとーっとした目でこっちを見てる。
その目は、何もかも見透かすような鋭い光を帯びていた。
「さっきからずーっとあんた犬飼のこと見てるじゃん、気づいてないとかないでしょ」
「…えっ、う、うそ。そ、そんなこと……」
頭が真っ白になった。
まさか、そんなにも分かりやすく見てしまっていたなんて。
将暉さんも、瑞希くんの言葉に少し驚いたように、こちらに視線を向けている。
瞬間、仁さんが俺に目を向けてきた。
その瞳と目が合うと、さらに心臓が跳ね上がる。
「なんか、俺の顔についてる……?」
聞かれると、顔がみるみる熱くなるのが分かった。
もう、耳の奥だけじゃなく、頬から首筋まで全身が火照っているような感覚だ。
「ち、違います……!そんなんじゃ、えっと、違く
て…」
とっさに否定しようとするけれど言葉が詰まる。
焦れば焦るほど、しどろもどろになって、何を言っているのか自分でも分からなくなる。
もう誤魔化すのは無理だ、という諦めと
でも正直に言うのはもっと嫌だという葛藤が俺の頭の中で渦巻いた。
「あ、いや……えっと……き、キモイこと言うと、仁さん、の…匂いに反応してるのかも、しれないです…っ」
俺の口から、最悪の言葉が飛び出した。
一瞬、時が止まった。
部屋中の空気が固まったような沈黙が訪れる。
「え…?」
仁さんが隣で瞬きをしたのがわかる。
その驚いた顔が、俺の頭の中に焼き付く。
俺は慌てて口に手を当てるが、もう遅い。
一度放たれた言葉は、もう取り消せない。
「ま、前に、ヒートのときに…仁さんが服借してくれたことあったから……」
顔が熱い。
もう自分でも何言ってるのかわからなかった。
なんで、なんでこんなことを口走ってしまったん
だ。
きっと仁さんは、ドン引きしているに違いない。
瑞希くんと将暉さんは面白がるような視線でこちらを見ている。
穴があったら入りたいとはこのことか。
しかし、そんな俺を見かねてか、仁さんが口を開いた。
「楓くん」
その声は、驚くほど落ち着いていて、俺の予想とは全く違っていた。
仁さんが、じっと俺の顔を見てる。
さっきよりも、真剣な顔
その真っ直ぐな視線に、俺は思わず息を呑んだ。
低くて、でも優しい声だ
その声が、キンと張り詰めた部屋の空気を少しだけ和らげたように感じられた。
「…..まだ、しんどい?」
「えっ」
「もしそうなら、服貸すけど」
仁さんの言葉の意味が、一瞬理解できなかった。
匂いに反応していることが、ヒートの症状が続いていることだと解釈してくれているのだろうか。
仁さんは、優しい。
その優しさが、俺の心をぎゅっと締め付ける。
普通匂いに反応してるなんて言われたら、気持ち悪いとか勘弁してくれ、とか思われるに違いないのに。
仁さんは、嫌な顔一つせず
むしろ俺の体調を気遣ってくれている。
この人の優しさは、一体どこまでが許容範囲なんだろう。
「だ、大丈夫です…!薬も、飲んだし……」
俺は慌ててそう言った。
「それ大丈夫じゃないやつが言うセリフ」
仁さんが、呆れたように、しかし温かい眼差しで俺を見て言った。
その言葉に、また胸がじんわりと温かくなる。
「だ、だって仁さんに迷惑なんじゃ…俺、番でもなんでもないのに」
「楓くんだからだよ。ちょっと待ってて、今持ってくっから」
そう言って俺の頭を撫でる仁さんは持っていたチューハイの缶をテーブルに置くと
ゆっくりと立ち上がって自分の荷物を漁り出した。
その動きは迷いがなく、まるで俺がそう言うことを予測していたかのようだ。
かと思うと、そこから白いカーディガン
黒のワイシャツとスウェットパンツを持って、俺の元に戻ってきた。
どれも彼の私物だ
普段、仁さんが着ている姿をよく見かけるものばかりで、彼の匂いが染み付いているのがわかる。
「これ、着といで」
差し出された服を、俺は思わず両手で受け取った。
まるで、大切な宝物を受け取るかのように。
「こ、こんなに借りて……っていうか、着ていいんですか……っ?」
仁さんは、うんと静かに頷いた。
その表情は、俺が何を心配しているのか、全て理解しているかのように優しかった。
「あっ、ありがとうございます……!」
俺は洗面所に移動して、浴衣を脱ぎ、渡された服に袖を通した。
カーディガンは仁さんのものだから、当然俺にはぶかぶかだし、シャツも少し大きい。
スウェットパンツも丈が余って、裾がだぶついている。
でも、なんだかさんに包まれてるみたいで安心す
る。
それに、想像していた以上に、すごくいい匂いがした。
仁さんの匂いが、俺の全身を包み込む。
ヒートのざわめきも、これなら完全に抑えられそうな気がした。
着替え終えて、脱いだ浴衣を腕にかけて部屋に戻ると、仁さんが温かい目で見守ってくれていた。
「ちょっと大きかったか」