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その夜、紫音は帰ってこなかった。
代わりに、紫色の髪の毛をした美麗な青年が訪ねてきた。
青年は紫音と付き合っていると言い、やきもちを妬かせてしまったと謝った。
そして大事な陶芸作品を紫音が破壊したと、映像データまで持ってきた。
(何それ。めっちゃオモシロイじゃん)
何が面白いのか。
もちろん、不細工な紫音とこんなイケメンが付き合っていたことがオモシロイ。
そして身の程をわきまえずに一丁前に嫉妬したことがもっとオモシロイ。
さらに彼氏が大事にしていた高価な陶芸作品を割るなんて狂行に出た姉がもっともっとオモシロイ。
凌空は受け取ったデータをいそいそと自分のパソコンで開いて、晴子に持っていった。
明らかに事後だとわかる服装も髪の毛も乱れた紫音が、塵ひとつ落ちていないリビングで、次々に陶芸作品を割っていく。
声は入っていないが、青年が困ったように両手を広げているのと、紫音が彼に何かを叫んでいるのがわかる。
「…………」
その動画を見ている晴子の顔が、般若のように変わっていく。
オモシロイ。
泣きはらした目で帰ってきた紫音が、晴子と仲違いをして出ていくと、満足した凌空もそそくさと家を出た。
エレベーターの扉が閉まると、陸は大笑いした。
本当に紫音がこの家にいてよかった。
愛されていない紫音を見るのは、この上なくオモシロイ。
それは、自分がまだマシだと納得できるから。
自分がまだ愛されていると、自覚できるから。
◆◆◆◆
電車に乗ると、当てもなく乗り継ぎ、それでも最終的には、佐倉のマンションがある駅で降りていた。
しかし、凌空のつま先が佐倉の家の方向に向かうことはなかった。
ただ駅裏を反対方向に歩きながら、仕事中なのであろうスーツの男や、誰かと会うのであろうミュールで走っている女性なんかがいる雑踏に身を埋めた。
もうきっと彼の家に行くこともないのだろう。
彼はとっくに自分が篠原にした仕打ちを許しているようだし、
少し前までは確かにあった自分に対する執着も薄くなったみたいだ。
呼ばれてもないのにあの部屋に行き、またセックスを見るのも嫌だし、
顔も名前も知らない人間たちとゲームをするのも飽きてしまった。
佐倉の家にもう行かないなら、クラスメイト達のおべっかに乗っかってやってもいい。
城咲が言うように、今度は彼の家に入り浸ってもいいかもしれない。
佐倉の顔が浮かぶ。
執拗に眼球を舐められた夜を思い出す。
彼が舐めた凌空の目に、入院するほどのケガを負わせた晴子の気持ちはわからない。
もしかしたらその『先生』が彼女の心情に関わっているのかもしれないが、城咲が言うように晴子になどとても聞くことはできないし、晴子の交友関係など知らないから調べようがない。
ジ・エンド。
ここで終わりだ。
もう知りたいとも思わない。
これ以上、愛されたいとも―――。
「あれ、キミ……」
雑踏の中、すれ違った女が足を止めた。
そこからあえて数歩進んでから、凌空はゆっくりと振り返った。
そこには、佐倉の家で彼に執拗に傷跡を舐められていた片胸の女が立っていた。
◆◆◆◆
「はい」
凌空を駅裏の噴水公園にあるベンチに座らせた女は、前の自動販売機でホットコーヒーを買って手渡した。
「別にいいのに」
凌空が言うと、
「かわいくなーい。高校生のくせに。奢ってもらったときはありがとうでしょー!」
黒い短めのタートルニットにバギージーンズ。
隣に座りながら笑った女は、佐倉の部屋で見たよりもずっと大人びて見えた。
「………」
視線を下げる。凌空は女の胸を見た。
「何よ」
「いや。わかんないなーって思って」
「あなたね、お礼は言えないくせに嫌味は言えるのね」
女は呆れたように笑うと、自分のコーヒーの蓋も開けて、コキュッと一口飲み込んだ。
「そうよ。ちゃんと調整パットしてるから」
凌空は自分も蓋を開けると、やけに甘いコーヒーを一口飲んだ。
「いいね。そうやって調整しとけば誰にもわからないから」
「――――」
女は噴水を見つめている凌空をのぞき込むと、ふうと小さく息を吐いた。
「実は、キミが駅を出るところから、着いてきてたんだ」
その言葉に、視線だけ彼女を見つめる。
「もしアイツのとこに行くなら、止めようと思って」
「ーーなんで」
聞くと、女は自嘲気味に笑った。
「ほら!アイツにさ、傷跡を愛してもらっても、何にも癒えないじゃない?逆にこじ開けられるっていうか。痛みと虚しさだけが残るんだよねっ」
そう笑った女の声は、微かに震えていた。
「でもキミ、アイツの家とは反対方向に歩き出したから、じゃあいいかなって思ったんだけど」
「……だけど?」
「なんかキミ、消えそうに見えたから」
「は?なにそれ」
女は凌空を振り返ってまっすぐに見つめた。
「消えそうに見えたよ。キミ、この街に溶けて掠れて、消えちゃうんじゃないかって思った」
「…………」
凌空は、缶を持っていない左手で、顔を上から下へ、下から上へ、強く擦った。
そして名前も知らない女を振り返ると、強く擦りすぎて真っ赤に染まった顔で言った。
「……じゃあ、消える前に聞いてくれる?俺の話」
◇◇◇◇
それから何時間話したのかは覚えていない。
全く父親と似ていない兄のこと。
その兄を溺愛し、姉を虐げる母親のこと。
母親に反抗し、家を出た姉のこと。
そして自分の目のことも、母が追いかけてくる忌まわしい記憶のことも。
亜希子のこと以外は全部話した。
「そっかあ」
女は、凌空が話したボリュームも、話の深刻さも全て無視したような軽い相槌を打つと、いつの間にか空になった缶を振りながら立ち上がった。
「私さ、親いないんだよね」
女は振り返った。
「その若さで両方?」
凌空が目を見開くと、
「っていうより、勘当された!」
女はにかっと笑った。
「実は、結構お嬢様でさ。小さいころから英才教育っていうの?私立の大学までエスカレーター式の幼稚園に入れられてさぁ。家庭教師もつけられて朝から晩まで勉強にお稽古よ。息が詰まっちゃって」
女はカラカラと笑いながら言った。
「それで中学校の時に付き合ってた男の家に逃げ込んで、それからはズブズブ。学校に行かなかったし、堕胎手術も2回受けたし。親のがっかりした顔を見るのが生きがいだった」
「――堕胎手術」
凌空が無意識に下げた視線を感じたのか、女は下腹部を両手で包んだ。
「それでとうとう親から勘当されて」
その手が片胸に行く。
「乳癌もその頃発症した。親は治療費は全額出してくれたけど、一度もお見舞いには来てくれなかった」
「――――」
思ったよりも壮絶な話に凌空は女の顔をただ見つめていた。
「私ね。周りに誰もいなくなって、そこで初めて家族が欲しいって思った。自分のお腹から産み落とした、本当の家族が欲しいって思ったの。2回も堕胎手術をした後で思うなんて、ひどいでしょ?」
女は笑いながら缶を両手で持つと、身体を捻り振りかぶった。
「でも!堕胎手術したからって子供が産めなくなったわけじゃないし!片胸だからって、おっぱいが出ないわけじゃない!」
女は腕を伸ばし缶を投げた。
それは隣のベンチでアイスを食べていた男子小学生たちの目の前を横切り、カランッといい音を立てながらさびれたゴミ箱に入った。
「おお~!!」
小学生たちが拍手をし、女はガッツポーズをとった。
「絶対、手に入れてやるんだ。旦那さんが笑ってて、その膝の上で子供も笑ってて。そんな家族を絶対に手に入れて見せる!」
彼女がこちらを振り返ると、後ろにあった噴水が音を立てて高くなった。
「………!」
「!!」
2人は驚いて見上げると、どちらからともなく目を合わせて微笑んだ。
凌空の中に何か温かいものが流れるのを感じた。
もしかしたら“血が通ってる”ってこういうことを言うのかもしれないと、そんなくだらないことを思って凌空は笑った。