「守満《もりみつ》様!急ぎ、牛車《くるま》のご用意をいたします。どうぞ、守満さまのお部屋にて、お待ちください」
髭モジャが、慌てて立ち上がり、房《へや》から、出ようとした。
それを、守満が、止めた。
「いや、宿直《とのい》は、嘘だよ。昨日終わったばかり、そう、続くものではないからね」
「まあ、もしかして!」
橘が、守満の懐に仕舞われている、女人用の桧扇《ひおうぎ》を、目敏く見つけた。
「ああ、そうなんだ、橘」
守満は、知恵を貸して欲しいと、座り込み、髭モジャと橘を、見た。
「……たしか、大路にて、立ち往生していた牛車を……」
「皆で、御屋敷近くまで、押して行った。そして、三条の本通りに近づいた所で、あとは、こちらでと、やんわりと、断られたんだ」
「そうですわね、御屋敷前まで、押して、何て、恥の上塗りですもの。ほどほどの所で、と、なりますわ」
それは、かまわぬ、無論、そうなるべきなのだ、とくに女人の車ならばと、守満は、独り言のように、呟くと、懐から、桧扇を取り出した。
「こちらが、拾ってくれと、ばかりに、落ちていた」
守満は、橘に差し出した。
受け取って、見てくれということかと、橘は、桧扇を袖で、くるむようにして、受け取った。
「……守満様……、こちらは……」
橘が、言い渋る。
「そうなのだよ。橘。三条通りの御屋敷で、姫君、さらに、当子《まさこ》と、きたら……」
「ん?いったい、なんなのじゃ?」
髭モジャだけが、取り残されている。
「……気がすすまないよ、わざわざ、桧扇に、当子と名前を記して、落として来る。しかも、誰しもがご存知の方と、きたら……」
「そうですわねぇ。守近様は、このことを?」
「知ってか知らずか、だろうねぇ」
ああーー、と、守満は、頭を抱え込む。
「うーん、すまん、ワシだけ、わからぬ!」
髭モジャが、落ち着かぬ素振りを見せた。
「お前様、三条の御屋敷といえば、どなたの御屋敷が、あるのか……気がつきませぬか?」
あっ、と、髭モジャが声を上げた。
「土御門《つちみかど》様かっ!!!そりやー、まずい!」
当世きっての、陰陽師や、僧侶を幾人も、抱え込み、祈祷や呪術で、あらゆるものを手中に納めると、いかがわしい噂が流れる、とある上位の貴族の、二つ名と言える呼び名を、髭モジャが、叫んだ。
本来は、禁中は、内裏の奥深くに座せる身分ゆえに、皆、噂に準じて、陰陽寮を束ねる、土御門家に例えて、三条の土御門様と、密かに呼んでいる、いわくある家、だった。
「間違いありませんわ、三条で、当子、とくれば、あちらの、あの、四の姫君のこと……」
「……やはり、そうか、ああ、厄介な方の目に止まったもんだ」
髭モジャは、あちゃーと、顔をしかめ、橘も、桧扇を握りしめている。
「と、その様子。やはり、噂通りなんだね?」
三条の土御門様の四の姫君は、街へ出ては、おのこを、物色する。
そして、目ぼしい男を見つけると、桧扇を落として、それを、届けさせる。
そこまでならば、ただの、男狂いと、蔑めばよい。噂話には、続きがある。
その姫君は、齢《よわい》百を越えており、扇を届けた男を飼い殺す──。
「ああ、生き血を啜ると、ワシは、聞いた事がありますぞ!」
「もう、髭モジャ、やめてくれよ!」
守満は、ひっと、小さく息を飲み、顔をひきつらせた。
「ワシが、代わりに、お届けもうす!!」
「お前様!立派です!!お前様の生き血なら、牛臭くて、きっと、姫君も、吐き出すことでしょう!!」
「おお!そうじゃな!」
「ちよっと!二人とも、待ってくれ!」
それでは、こちらの、家の立場がなくなるのではないか、父上の名前にもキズが付くのではないか、と、守満は、危惧している。
「そうですわねー、噂通りなら、別に問題ないでしょう。しかし、生き血を吸った、吸われたなんて、殿方など、実際、見たことも聞いたことも、ございませんよねー」
三人は、どう、動くべきか、うーんと、唸った。
「……生き血、なんて話はでたらめ……ですが、その桧扇からは、いやな香りがいたしますぞ」
斉時《なりとき》が、開けっ放しにして行った、入り口に、猫が一匹すわっている。
「おや、たしか、親分猫、だったよね」
「守満様!喋りましたぞ!!猫が!!!」
「お前様、タマだって、喋っていたでしょう?なにを今さら」
「おお、若も、喋ったのぉ、確か」
言ったとたん、髭モジャは、痛てっ!と、叫んでいた。
橘が、髭モジャの耳を引っ張っていた。
「にょ、女房殿!若は、牛じゃて!ワシは、牛となど、何もありやーせんっ!!」
わかっておりますよ、もちろん、と、落ちつき払う、橘の目は、何故か、吊り上げっている。
「……あ、すまぬ、夫婦喧嘩の最中だったのか、邪魔をしたなぁ」
守満が、すまなさそうに言うのを、親分猫が、くくく、と、笑って見ていた。
「あらまあ、なんの、勘違いでしょう。ほほほ」
橘は、やり過ごしつつ、親分猫へ、
「嫌な香りとは、いったい?」
と、尋ねた。
「唐下がりの香《こう》、ですじゃ」
えええ!!
守満、髭モジャ、橘は、腰を抜かす勢いで、叫んだ。
もう、終ったことではないのか?
ここに来て、また、香《こう》の事が出て来ては、ますます、動きが取れない。
まるで、守満を、誘い出すかのような行い……。
「お前様!」
「これは、まずいぞ!」
「橘、やはり、気がつかなかった振りをすべきか?!」
動揺しきる、一同に、親分猫が、言った。
「若君、堂々と、桧扇を、お届けなさい。ああ、ほんのり、ではありますが、香りが、移っておりますでのぉ、なるべく、体からは、離された方がよろしい」
うむ、あいわかった。と、守満は、答えつつも、
「して、恥を忍んでの相談だが、親分猫殿、私は、どうすれば……」
髭モジャも、橘も、おもわず、頷いていた。
ものが、もの。話が、話し。正直、紗奈《さな》を、呼び戻したい、心境に、皆、陥っていた。