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5
現地に入ったリチャードは、
休む間もなく各陣所を回った。
兵の顔を見、傷病者に声をかけ、
指揮官たちの名を覚え、時には冗談まで飛ばした。
そのさなか、最前線の陣地で彼はふと足を止めた。
敵城壁の上に、こちらを嘲るように立つ兵の姿が見えた。
「弓を貸せ」
近くにいた兵が、慌てて弓を差し出す。
リチャードは何気ない仕草で弦を引いた。
次の瞬間、矢は風を裂き、城壁上の兵を射抜いた。
一拍遅れて、陣地が爆発したように沸いた。
「見たか!」
リチャードは弓を返し、兵たちへ振り返る。
「我が命に従えば、必ず城は落ちる!」
歓声はさらに大きくなった。
その声は、長く停滞していた包囲陣に、
久しく忘れていた熱を呼び戻していく。
一方、その報せはサラディンの陣にも届いていた。
「会見?」
サラディンは、弟アーディルの言葉を聞き返した。
「はい。和平の申し入れがしたい、と」
「ばかな」
即座に言った。
だが、その声に怒りはない。
むしろ考え込むような響きがあった。
「会われますか」
「いや」
「では、私が参りましょう」
サラディンはしばし沈黙したのち、うなずいた。
「うむ」
アーディルが退出しかけたところで、サラディンは呼び止める。
「アーディル」
「はい」
「何かわかったら、すぐ知らせてくれ」
その目は、遠くアッコムの方角を見ていた。
「総攻撃が近いのかもしれん」
サラディンへの抑えは、レイナ女王に任された。
銀の甲冑をまとった女王は、
自ら軍を率いて包囲軍の側面へ布陣し、
幾度となく襲い来るサラディン軍を押し返していた。
その間に――
リチャードは、自ら攻城軍を指揮した。
投石機が唸りを上げ、
破城槌が城門を叩く。
矢と火炎壺が空を埋め、
アッコムの城壁は日に日に削られていった。
激闘は数日間続いた。
だが、その間もリチャードは、
最前線から一歩も動かなかった。
崩れた防壁の前。
飛び交う矢の中で、
赤い外套だけが、まるで戦場の旗のように翻っている。
兵たちは、その姿を見るだけで奮い立った。
その傍らには、
白姿のサイラスたちが控えていた。
リチャードは、崩れかけた城壁を眺めながら口を開く。
「サイラス、どう見る?」
「明日には落ちます」
即答だった。
「サラディンは?」
「レイナ女王の鉄壁陣を崩せてはおりません」
「油断は禁物ですが……打つ手なし、と」
リチャードは小さく笑った。
「そうだな」
眼前では、再び投石機の巨石が城壁を砕いていた。
石煙の向こうで、
アッコムの防壁が、ゆっくりと傾いていく。
リチャードは、その光景を見上げながら、
静かに勝利を確信した。
二年もの間、
グラム教軍の猛攻を耐え抜いてきた城塞都市アッコムは、
ついに降伏した。
陥落の報は瞬く間に全軍へ広がり、
歓声は海を震わせた。
その知らせを聞いたサラディンは、
天に向かって絶叫した――
後世には、そう伝えられている。
アッコム陥落後、
城壁にはまずエスカリオ商王国の国旗が掲げられた。
続いて、
神聖ロウム帝国のレオポルト公が、
自軍の旗を掲げようと前へ出る。
それを見たリチャードの表情が険しくなった。
「待て」
その声音には、露骨な苛立ちが滲んでいた。
だが、その瞬間。
「お待ちください、リチャード殿」
サイラスが静かに進み出た。
「我々の目標はエルガルドです」
「ここで味方と争うべきではありません」
リチャードは不機嫌そうに眉を寄せる。
サイラスは続けた。
「リチャード殿は、あらゆる面でサラディンを越えねばなりません」
「武だけではなく、器量でも」
「味方には寛容を示すべきです」
そして、涼しい顔で付け加えた。
「――これは、お父上カルド王より」
「リチャード様へお伝えするよう命じられていた言葉です」
もちろん、大嘘だった。
だが、リチャードは鼻を鳴らしながらも、
それ以上は何も言わなかった。
若き獅子は、
まだ己の激情を制御しきれていない。
だからこそ、
導く者が必要だった。
さらに――
アッコムで捕らえた二千の捕虜は、
サイラスの助言によって即日解放された。
諸将は騒然となる。
だがサイラスは平然としていた。
「サラディンに、格の違いを見せつけましょう」
「捕虜交換など、時間の無駄です」
「冬までに聖地を奪還する――」
「そう彼らに伝えてもらうのです」
その言葉に、
リチャードは豪快に笑った。
サイラスは静かに彼を見つめる。
この男は、
間違いなく軍事の天才だった。
戦場では誰より大胆で、
誰より兵を奮い立たせる。
だが一方で――
外交、交渉、忍耐。
そうしたものには、
決定的に向いていない。
だからこそサイラスは、
その剣が味方へ向かぬよう、
巧みに手綱を握っていた。
サラディンは、ついにアッコムから撤兵した。
連合軍は歓喜に沸いたが、
誰一人として、
このまま戦いが終わるとは考えていなかった。
砂漠の王は、まだ健在だったからである。
連合軍はサラディン軍を警戒しつつ、
湾岸諸都市を攻略しながら、
聖地エルガルドを目指すこととなった。
だが、その行軍は過酷を極めた。
焼けつく太陽。
尽きぬ砂塵。
そして、いつ襲ってくるかわからぬ
サラディン軍の騎兵。
作戦会議では、
諸将たちが補給や進軍速度について議論を重ねていた。
その中で、
リチャードが静かに口を開く。
「行軍は、涼しい午前中のみとしよう」
場が静まった。
「襲撃を受けた兵は、交代で後方へ下げる」
「補給は海上から行う」
「水の供給は絶やさないように配慮する」
簡潔だった。
だが、その場にいた歴戦の将たちは、
すぐにその意味を理解した。
砂漠で兵を殺すのは、
敵だけではない。
暑さ、渇き、疲労。
それこそが最大の敵だった。
サイラスは、
わずかに目を細めた。
(……この人の強さは)
(兵の心を理解していることにあるのだ)
英雄然とした派手さばかりが目立つ男だった。
だが実際には、
兵の疲れ、
喉の渇き、
恐怖、
そうしたものを本能的に理解している。
だから兵は、この男についていく。
サイラスは静かに口を開いた。
「よき策です」
「この暑さによる兵の脱落を防げます」
するとリチャードは、
当然のように言った。
「兵が倒れては、誰が戦うのだ」
その言葉に、
諸将たちは顔を見合わせた。
単純なようでいて、
それを徹底できる将は少ない。
サイラスは確信していた。
この若き獅子は、
ただ勇猛なだけではない。
――戦争そのものに、異様な才能を持っている。
サラディンは、
湾岸沿いを進むリチャード軍を眺めながら、
その隙の無さに舌を巻いていた。
行軍は乱れない。
補給は海から絶え間なく届く。
襲撃を受けた部隊は即座に交代し、
疲弊した兵を無理に前へ立たせない。
さらに、
重装歩兵と騎士を海側へ、
脆い部隊を内陸側へ置くことで、
軽装騎兵による奇襲にも備えていた。
(……見事だ)
サラディンは静かに目を細める。
あの若獅子は、
ただの猪武者ではない。
兵の扱いを知り、
戦場の理を理解している。
ならば――
「もはや、全力で叩き潰すしかないか……」
決戦の地に選んだのは、
アル・スープ
森林地帯から平野を見下ろせる土地。
騎兵を潜ませることができ、
さらに広大な平原では、
軽装騎兵を縦横無尽に走らせられる。
サラディンは、
そこへ全軍を集め始めた。
同じ頃――
リチャード、サイラス、そしてレイナ女王も、
陣幕の中で一枚の地図を囲んでいた。
リチャードが口を開く。
「来るだろうなあ」
サイラスは即座にうなずく。
「来ますね」
レイナ女王も鼻で笑った。
「来るに決まっておろう」
三人は、
ほぼ同時にアル・スープの地を指していた。
沈黙が落ちる。
互いに、
相手が決戦を望んでいることを理解している。
逃げも、奇襲もない。
いよいよ――
砂漠の王と獅子心王、
両雄激突の時だった。