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森の闇を押し分けるように、砂煙が立ち上った。
次の瞬間、無数の蹄の音が地を揺らす。
木々の隙間から現れたのは、
サラディン旗下の軽装騎兵――三万。
陽光を浴びた曲刀が波のように煌めき、緑と黒の軍旗が風を裂いた。
騎兵たちは叫びも上げず、ただ静かに、しかし圧倒的な速度で平野へ広がっていく。
その様はまるで、
森そのものが牙を剥き、軍勢となって襲いかかってきたかのようだった。
先頭で白馬を駆る将の姿を見つけた兵が、震える声で呟く。
「……サラディンだ」
その名が広がった瞬間、
連合軍陣営に、目に見えぬ恐怖が走った。
「おう」
リチャードは、
迫り来る砂煙を見据えたまま笑った。
「俺はここにいるぜ」
赤い外套が風になびく。
その姿は、
後方で指揮を執る王ではない。
最前線で兵と共に立つ、
一人の戦士だった。
「盾を上げろ!」
号令とともに、
森に面した重装歩兵たちが一斉に動く。
ガシャアッ――!
巨大な盾が並び、
鉄と鉄が噛み合う音が響いた。
前列の兵たちは膝を落とし、
長槍を森へ向ける。
その穂先が、
まるで鋼鉄の壁のように並んだ。
兵たちの額には汗が滲んでいた。
誰もが見えている。
森の奥。
木々の隙間から、
無数の騎影がこちらへ押し寄せてくるのを。
地鳴り。
蹄の震動が、
足元から伝わってくる。
若い兵士が、
喉を鳴らした。
「く、来る……」
隣の老兵が怒鳴る。
「前を見ろ!」
「槍を下げるな!」
恐怖は、
隊列全体に広がっていた。
三万。
あまりにも膨大な数だった。
森そのものが敵になったかのように、
軽装騎兵が溢れ出してくる。
だが――。
中央だけは違った。
赤い外套が、
槍衾の中で揺れている。
リチャードは馬から降り、
重装歩兵たちと同じ地面に立っていた。
剣を肩に担ぎ、
獰猛な笑みを浮かべている。
「いいじゃねえか」
彼は言った。
「持ちこたえよ!」
「味方を信じよ!」
その言葉に、
兵たちの顔が変わる。
震えていた若い兵が、
槍を握り直した。
誰かが笑った。
すると、
その笑いは次々と広がっていく。
「獅子心王が前にいるぞ!」
「神と獅子と共に戦え!」
重装歩兵たちは、
盾をさらに押し合わせた。
巨大な鉄壁が、
森の前に築かれていく。
そしてその中央には――。
若獅子リチャードがいた。
「持ちこたえておくれよ」
レイナ女王は、
眼下に広がる戦場を眺めながら、
静かに言った。
「妾が一撃でサラディンを仕留めて見せようぞ」
傍らに控えるエレンが、
わずかに目を見開く。
だが女王は冗談を言っている顔ではなかった。
後方。
そこには、
連合軍の精鋭騎士たちが静かに待機していた。
白銀の甲冑。
翻る蒼旗。
そして中央には、
深紅レッドラビットの軍馬に跨るレイナ女王。
風が、
長い銀髪を揺らしていた。
彼女は動かない。
焦りも、
恐れもない。
ただ獲物を待つ猛禽のように、
静かに平原を見下ろしていた。
眼下では、
リチャード率いる重装歩兵が、
サラディン軍の猛攻を受け止めている。
軽装騎兵が波のように押し寄せるたび、
槍衾が軋み、
盾が砕け、
悲鳴が上がる。
それでも、
赤い外套はまだ倒れていない。
「坊や……」
レイナは小さく笑った。
「男になりな」
サラディン軍は、
包み込むように左右へ広がり始めていた。
まるで巨大な蛇が、
獲物へ巻きつこうとしているかのようだった。
エレンは低く問う。
「……参られますか」
レイナ女王は、
ゆっくり首を横に振る。
「まだじゃ」
その視線は、
敵軍中央へ向けられていた。
緑旗。
その下にいる、
一人の男。
サラディン。
砂漠の英雄。
レイナの瞳が、
鋭く細められる。
「必ず前へ出てくる」
女王は確信していた。
あの男は、
戦場を遠くから眺めるだけの王ではない。
勝利を確信した瞬間、
必ず自ら前へ出る。
その瞬間こそ、
唯一の好機だった。
風が吹く。
草が揺れた。
そしてレイナ女王は、
静かに槍を持ち上げた。
陽光を受けた穂先が、
白く輝く。
まるで、
死神の牙のように。
隊列の後尾を襲ったのは――
サラディンの弟、
アーディルだった。
緑旗の下、
褐色の軍馬を駆るその男は、
絶え間なく戦場を動き回っていた。
「ここを破れば、リチャードの軍は壊れる」
その声には確信があった。
重装歩兵は正面には強い。
だが後尾を崩されれば、
密集陣形は混乱し、
やがて瓦解する。
アーディルは、
その一点だけを狙っていた。
「前へ!」
角笛が鳴る。
軽装騎兵たちが、
砂煙を巻き上げながら突撃した。
矢が降る。
槍が突き出される。
盾に矢が突き刺さり、
甲冑に火花が散った。
だが、
それでも重装歩兵は崩れない。
「押し返せ!」
後列から槍が突き出され、
馬が悲鳴を上げて倒れる。
騎兵が地面へ投げ出され、
踏み潰される。
それでもアーディルは止めない。
「第二波だ!」
退いた騎兵の隙間を縫うように、
次の隊列が突撃する。
休ませない。
呼吸を整える暇すら与えず、
波のように攻撃を叩き込む。
一度。
二度。
三度。
そのたびに、
鉄壁は少しずつ軋んでいった。
盾が割れ、
兵が倒れ、
槍衾に穴が開き始める。
兵たちの顔から、
余裕が消えていく。
「くそっ……!」
「まだ来るのか!」
汗と血で滑る槍を、
兵たちは必死に握り直した。
その様子を見ながら、
アーディルは静かに呟く。
「堅い……」
風が砂塵を運ぶ。
眼前には、
なお崩れぬ鉄壁。
だが、
彼の目には疲労も見えていた。
兵の動きが鈍い。
槍を戻す速度が落ちている。
限界は近い。
アーディルは剣を抜いた。
「だが――」
その瞳に、
猛禽のような光が宿る。
「我らが先に破るか」
「向こうが持ちこたえ――」
彼は、
正面の赤い外套を見据えた。
「反撃の一撃を、我らが食らうか」
剣先を前へ向ける。
「すべては、そこにかかっている」
そして再び、
角笛が戦場へ響き渡った。
「持ちこたえよ!」
サイラスの声が、
戦場へ響き渡った。
「敵の波状攻撃は焦りの表れぞ!」
土煙の中。
白い外套を翻しながら、
彼は最前線近くまで進み出ていた。
片袖の空いた衣が、
風にはためく。
その細い身体は、
武人のような威圧感こそない。
だが、
その声には不思議な力があった。
潰れかけた兵たちの耳へ、
真っ直ぐ届く声だった。
「敵が恐れるのは――」
サイラスは、
槍衾の向こうを睨む。
押し寄せる騎兵。
止まらぬ角笛。
砂塵。
それでも彼は断言した。
「波状攻撃の止まった後の――」
白扇を振り上げる。
「我らの一撃ぞ!」
その瞬間。
疲弊しきっていた兵たちの目に、
わずかに光が戻った。
そうだ。
敵は、
なぜこれほど急ぐのか。
なぜ、
これほど執拗に攻め続けるのか。
止まれば終わると、
敵自身が理解しているからだ。
一度でも勢いが途切れれば、
重装歩兵の反撃が始まる。
そしてその中央には、
リチャードがいる。
「耐えろォォ!!」
兵たちは盾を押し合わせた。
砕けた槍を捨て、
短槍を拾い、
倒れた仲間の隙間を埋める。
地面は血と泥でぬかるみ、
死体が幾重にも積み重なっていた。
それでも戦列は、
まだ崩れていない。
戦いは、
すでに二時間を超えていた。
太陽は高く昇り、
熱気が甲冑を灼く。
喉は乾き、
腕は痺れ、
足は鉛のように重い。
兵士たちは、
もはや気力だけで立っていた。
そしてそれは、
敵も同じだった。
軽装騎兵たちの突撃にも、
最初の鋭さが失われ始めている。
馬も疲れ、
矢の数も減り、
突撃の間隔がわずかに空き始めていた。
ほんのわずか。
だが戦場では、
その“わずか”が命取りになる。
どれほど完璧な軍略も。
どれほど緻密な包囲も。
最後に戦の天秤を傾けるのは、
ほんの一瞬の揺らぎだった。
サイラスは、
静かに息を吐く。
「アルーのほかに神は無し!」
サラディンの声が、
砂塵の中を鋭く貫いた。
「いまや敵は、膨大な損害を出し続けている!」
彼は軍馬の上から、
戦場全体を見渡していた。
森際では、
なお軽装騎兵が波のように押し寄せている。
槍衾は、
確実に削れていた。
倒れた重装歩兵の隙間を埋める兵も、
もう疲労を隠せない。
盾を支える腕は震え、
動きは鈍り、
呼吸は乱れている。
「もう一息で敵は崩れる!」
その声に、
周囲の兵たちが鬨の声を上げた。
「アラー・アクバル!」
熱狂が、
戦場を包む。
サラディンは静かに目を細めた。
彼は知っていた。
この戦いは、
ただ兵をぶつけ合うだけの戦ではない。
耐久戦。
精神が先に折れた側が敗れる。
そして今、
確かに敵は限界へ近づいていた。
リチャードの軍は堅い。
予想以上に堅い。
だが、
堅いということは、
動けないということでもある。
包囲され、
押し潰され、
疲弊しきれば、
最後には崩れる。
サラディンは後方を振り返った。
そこには、
まだ温存された騎兵隊が控えていた。
砂塵の中で静かに待機する、
予備戦力。
数千。
戦場を決定づけるためだけに、
残しておいた牙だった。
今か。
まだか。
サラディンは、
その投入の瞬間を見極めていた。
早すぎれば、
敵はまだ耐える。
遅すぎれば、
逆にこちらが疲弊する。
戦場は、
巨大な綱渡りだった。
そして彼は、
赤い外套を見つめる。
敵中央。
なお立ち続ける男。
リチャード。
「あの男……」
サラディンは小さく呟いた。
「あれを折れば終わる」
サラディンの瞳が鋭くなる。
その時だった。
高台の上で、
何かが陽光を反射した。
白銀の光。
サラディンの目が、
わずかに細められる。
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眠狂四郎
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