存在という存在こそ、最も有耶無耶な存在である。何かが「ある」と言い切るためには、必ずそれを認識する主体が必要となり、しかし認識する主体そのものもまた曖昧な揺らぎの中にある。人は自らを確固たる一つの存在だと思い込むが、意識も記憶も日々変化し続け、同じ“自分”など一瞬たりとも留まらない。存在とは本来、連続した状態ではなく、無数の瞬間が連なって見えているにすぎないのかもしれない。だが、多くの人はその不確かさを恐れ、輪郭を求め、名前を与え、役割を定め、形を固定しようとする。曖昧なものを曖昧なまま抱えることが苦手なのだ。しかし、曖昧さこそが存在の本質であると認めた時、人はようやく自分という枠の外側へ目を向けられるようになる。確固たる正解も終着点もないからこそ、存在は常に変わり続け、広がり続ける。その不安定さは恐怖ではなく、むしろ自由そのものなのだ。存在とは定義されるためにあるのではなく、揺らぎ続けることで世界との関係を更新し続ける“動き”そのものなのだろう。







