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信二は、中小企業人材派遣会社に長年勤め、身を粉にして働いていたが、この所、昇進問題とかで色々悩んでいた
悩んでいたのは知っていたけど、まさか北海道に転勤など聞いたことがなかった、それも移住?
「ど・・・どういう流れでそうなったの?」
藤子は二年付き合っていた恋人としてではなく、仲の良い仕事仲間と、世間話をするような口調で聞いた
「ずっと考えてたことなんだ、何て言うか・・・俺は33歳になったのに、まだ何も成し遂げていないような気がしてね、そこで環境を変えてみようと思ったんだ、北海道はいいぞ!!何もかもデカい!」
そこで彼は藤子の手を改めて握った
「君も社宅の近くにアパートを借りなよ、一緒に「北の国から」のドラマの聖地巡りをしよう。狐にラベンダーに、北海道ソフトクリームだ!!」
そういえば彼の家のオーディオセットの棚にはドラマ「北の国から」のDVDセットが置いてあるのを思い出した
「悪いけど「北の国から」を観たことが無いから、聖地巡りはあなたと同じ熱量で喜べるかどうか・・・それじゃ、これがサプライズなの?」
藤子は続けて出そうな皮肉はなんとかこらえた
「ああ!そうだよ、これから帰って一緒にDVDを観てもいい!」
彼が言った
「私は・・・てっきりあなたがプロポーズしてくれると思ったわ・・・」
それを聞いた彼の表情を見て雲行きが怪しくなった、そして突然北海道転勤永住よりも、二人の間には、もっと大きな問題が浮かび上がった
「私達・・・今まで色々話し合ったわよね?あなたは子供は二人持ちたいって言わなかった?」
彼はムッとして言った
「そういうのはピロートークと言うんじゃないかな?他にも犬を飼いたいとか、大きな家に住みたいとか、その系の話は沢山したじゃないか」
ピロートーク・・・その系の話・・・何だかどんどんこの店に入ってくる前とは違う問題になっている、プロポーズやフラッシュボムどころか、今はもはや、彼は自分と結婚する気があるのかどうか突き詰めないといけない問題になっている
彼が尻すぼみにボソボソ言う
「俺はただ・・・結婚とか子供とかは、もう少し先の話だと・・・まずは仕事でキチンと一人前になって、それまで君が傍で支えてくれたらと・・・」
ワイングラスを困ったようにいじっている信二を見ていると、その言葉で納得して黙る気には到底なれなかった
「私と結婚することがもう少し先って?それはどれぐらい?」
藤子は聞いた、彼が身振りで店を示した
「どれぐらいって・・・今ここでする話か?」
「今ここでする話しよ!」
明らかに自分が怒っている顔をしていることは自覚している、でもここで彼に言い逃れをさせる気にはならなかった
「わかったよ、俺にとっては結婚も、子供を持つ事も、とても大変なことなんだ。俺は今、仕事の大事な分岐点で、なんとか成功したいんだ、だから君に一緒に北海道に来て、支えてもらいたいと思っている。なぜなら君を心から愛しているからさ、結局のところ大切なのはそこだろう?」
彼はお愛想程度に藤子に笑顔を向けた、でも藤子は黙ったまま、彼の可愛いと思っていた一重の目をじっと見つめていた、愛しているからこそ自分と家庭を持つ気がこの人には無いのだ、よく見たら彼の目はあまり可愛くないかもしれない
「信ちゃん・・・私は神崎広告代理店のコピーライターよ、大阪を離れるつもりもないし、仕事を辞めるつもりはないわ」
「北海道にもコピーライターの仕事はあるさ」
彼は椅子にもたれて一瞬黙り込んだ、そんなにあちこちにコピーライターの仕事は転がっていないのも彼はわかっている
仕事のあても、結婚のあても、将来の展望もないままに、全てを捨てて北海道に行くことはどう考えても無理だ、そして彼は問題点を都合良くすり替えている
「北海道の移住はあなたの夢だと思うけど?私の夢ではないわ」
彼がムッとして言った
「二人の夢になったらいいなと思ったんだ」
「私は寒いのは苦手なの、冷え性で冬が一番嫌いなの知ってるでしょ!」
「愛があればそんなの乗り越えられるよ」
藤子は小さく首を振った
「裏起毛タイツを何枚も重ね着しないとお洒落出来ないのは辛いわ、どうしても北海道に行くというのなら、あなた一人で行って」
彼は怒って言った
「わかった」
二人の間に長い沈黙が漂った、藤子はもう何も言うことが無かった・・・そして彼が言った
「ワインが無駄になったな・・・」
。 .:・.。.
.。.:・
【現在】
。.:・
「それでね、この哺乳瓶の蓋を取ると・・・」
藤子はメビウスタワービル1階の宇宙船のコックピットのような受付カウンターに前かがみにもたれ・双子の受付嬢に新商品の「ファンタスティック色白サラサラスプレー・バージョン2」の説明をしていた
藤子がパカッと哺乳瓶の蓋を取って見せる
「ここを押すとスプレーになるのよ、わざわざ手を汚して塗らなくてもいいの」
シューッと自分の腕にふりかけて双子に見せる
「すごーーーーーい♪」
「すごーーーーーい♪」
双子の「嬉々と羅々」が首を絞められた鶏のようなかん高い声で叫ぶ
「まだ発売前で今日うちにサンプルが届いたばかりよ、ハイこれ、あなた達にあげる」
「藤子ちゃん大好きーーー(はぁと)」
「藤子ちゃん大好きーーー(はぁと)」
そこに大きなポスターを数本抱えたジェニと、コピー用紙を二箱抱えた三浦が通りかかった、藤子は双子の受付嬢にバイバイと手を振って、ジェニ達が乗っているエレベーターに滑り込む時に、守衛室に向かってこれまたバイバイと手を振った、すると小さな守衛室の小窓から「守衛の佐々木さん初孫持ちの」手がにゅっと出て、藤子にバイバイと手を振った
「よく、あの受付嬢の子達と話す気になれるわね」
ジェニが笑いながら言った
「そうだよ、黒板を爪でひっかいたような声を出すぞ、あの子達」
三浦も人差し指で耳の穴をほじって言った、ピンク色のノースリーブシャツを着た藤子が笑う
「私も最初はあの子達と話す度に髪の毛が逆立ってたけど、慣れれば平気よ、後でちょっと耳鳴りがするだけ、とっても良い子達よ」
「最初は同じ子が毎日出勤しているのかと思ったら、あの子達、双子だったのね」
「そうなの、見分けるのは、右のほっぺにホクロがある子がお姉ちゃんなんだって」
三浦が面白そうに藤子を見る、首から下げている社員証が窮屈そうだ
「前から思ってたけどそ、のうち「藤子教」とか作れそうだな」
「宗教!!」
ジェニもケラケラ笑う
「そうそう、時々いるよね教祖向きの人って、いっつも人に囲まれてさ、人たらしの藤子教」
お言葉ですけど、という顔で藤子が人差し指を立てる
「私がコミュケーションの達人だからと言う訳ではないけど、教祖はなりたくてなれるもんじゃないわ、選ばれるのよ!」
「藤子教の教祖様のありがたいお言葉だな、たしかに藤子を嫌いだという人には出会ったことが無い」
三浦は肩をすくめた、藤子は片眉を上げて得意そうに言った
「お布施はお気持ちだけでけっこうよ!」
三人は笑った
コメント
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読了しました。第33話、一気に引き込まれました。 レストランでの信二の「ピロートーク」発言、あれは痛かったですね…藤子が「結婚」を現実の話として考えているのに、彼は「夢」のまま押し通そうとしている。北海道移住を「二人の夢」と言い換える口先だけのロマンスに、藤子が冷めていく過程が丁寧に描かれていて、切なかったです。 一方、現在のオフィスでの藤子は別人のように生き生きとしていて、そのギャップがまた良い。ジェニと三浦との軽妙なやりとり、「藤子教」のネタ、双子の受付嬢への優しさ…彼女がちゃんと自分の居場所と仕事を選び取ったんだな、とホッとしました。伏線として、信二の「北の国から」熱が後々どう響くのか、気になります。