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WISE本部の廊下は、いつ来ても冷たい。
無機質な壁。
抑えた照明。
感情を置いていくための場所。
「〈IRIS〉、入れ」
ノックをする前に、低い声が響いた。
「…失礼します」
扉の向こうにいたのは、上官。
机の上には、見慣れたファイル。
——フォージャー家。
「任務の進捗を聞こう。」
「特に問題はありません。 〈黄昏〉の偽装生活も、周辺環境も安定しています」
用意していた“正しい答え”。
スパイとして、百点満点の報告。
……なのに。
「本当に“問題はない”のか?」
上官の視線が、こちらを射抜く。
「君は優秀だ。
だからこそ、違和感を見逃すとは思えない」
一瞬、心臓が強く打った。
「……何か、掴んでいるのですか」
「こちらが聞いている」
机の上のファイルが、指先で叩かれる。
「〈黄昏〉の周辺に、
“想定外の要素”が増えている」
——想定外。
その言葉が指すものを、私は知っている。
「特に、妻役の女性だ」
やっぱり、か…
「彼女の経歴はクリーンすぎる。
反応速度、身体能力、危機対応……」
淡々と並べられる分析結果。
「一般市民としては、不自然だ。」
喉が、わずかに詰まる。
——報告すべき内容。
——隠している事実。
どちらも、分かっている。
「〈IRIS〉」
上官が、はっきりと告げた。
「君は“近すぎる”」
「……」
「任務対象に情が移っているスパイは、
最終的に判断を誤る」
「次の接触で、確証を掴め。
必要なら——切り捨てろ」
その言葉は、命令として完成していた。
「…了解、です」
口が勝手に動く。
それが、〈IRIS〉。
——でも。
部屋を出た瞬間、
胸の奥が、ひどく重くなった。
切り捨てる?
あの人を?
敬語でぎこちなく笑って、
娘のために必死になって、
夕飯の献立で悩むようなーー
あの、ヨル・フォージャーを?
「……」
その日の夜。
私は再び、フォージャー家の前に
立っていた。
“リナ”として。
「リナさん」
ドアを開けたロイドが、
いつもの顔で迎える。
「急にすみません」
「いえ、ちょうど良かった。入ってください」
……あなたは何も知らない。
WISEが、
この家を“評価対象”として
見始めていることを。
「りなのおねーさん!!」
アーニャちゃんが走ってくる。
「きょうね! すごいことあった!」
楽しそうに話し出す、その声。
——平和だ。
あまりにも。
ヨルさんが、キッチンから顔を出す。
「リナさん、いらっしゃいませ。
今、お茶を淹れますね」
「ありがとうございます」
その仕草一つ一つが、
私の決意を鈍らせる。
アーニャちゃんが、私を見上げた。
そして——
ほんの一瞬だけ、表情が変わる。
笑顔が消えて、
真剣な、子どもらしくない目。
……読まれている。
私が、試しに来たことを。
でもアーニャちゃんは、すぐに笑った。
「りなのおねーさん、つぎはいつくる?」
「……すぐ、また来るよ」
本当かどうか分からない約束。
この家を、
守る側でいられるのか。
それとも——壊す側になるのか。
〈IRIS〉は、選ばなければならない。
報告義務と、
人としての感情の間で。