コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
それから何日かして、花は家族の視界に溶け込み、晴子は黒薔薇を疎ましく思うことも、ソネットに胸を熱くすることもなくなっていった。
それよりも気になったのは、あの日以来、刈谷悠仁から連絡が来なくなったことだ。
今までは月に2度か3度、彼の方から誘いがあったのに、こちらから連絡しても折り返してさえ来なかった。
(病気や事故にでもあってたりして。……それかまさか私たちの関係がバレたとか?)
ソファの足元に置いてあるムートンカーペットにブラシをかけていた晴子は途端に心配になり、そばに置いてあったハンドバッグからスマートフォンを取り出した。
そして刈谷香代子のLAIN画面を開き、メッセージを送った。
【明日のお昼、ランチなんてどう?】
実は香代子と晴子の会う頻度は、悠仁のそれよりもずっと少ない。
せいぜい2ヶ月1に度か、3ヶ月に1度だ。
それなのに先週あったばかりの晴子から連絡が来たらおかしいと思うだろうか。
【駅前にできたジャズバーのランチ行ってみたいねって話してたじゃない?】
慌てて付け加えてみた。
しかし晴子と同様に専業主婦であるはずの香代子からはなかなか返信が来ない。
何だろう。
胸騒ぎがする。
そうだ。
刈谷弁護士事務所に行けば何かわかるだろうか。
25年前ではあるが、元アルバイトだし、馴染みの経理は今も勤めているはずだ。
「近くに来たからつい懐かしくて……」
相応に驚かれるだろうが、不自然ではないはずだ。
近所のモールにできたフルーツサンドの専門店で人気の味を4個ずつ買って、それから電車で向かおう。
考えながら部屋着を脱いで、銀杏色のハイネックのニットワンピースに、カーキのロングシャツを合わせる。
駅から近い事務所だから車で行くよりその方がかえってーーー。
ピロン。
そこまで考えたところで、LAINの通知音が鳴った。
【ごめんね。このところ体調が優れなくて……。また今度でもいい?】
香代子からの返信だった。
「なんだ……」
晴子はその画面を見下ろして呟いた。
【大丈夫?】
【ごめんね、心配かけて】
佳代子が続けて送って来る。
「してないわよ、心配なんて」
鼻で笑いながら返信をする。
【風邪?】
返してやると、
【そうかも。なんか最近、天気が落ち着かないから】
妻が具合悪いから、家事までしなきゃいけなくなった悠仁も忙しいのかもしれない。
【そう。お大事にね。何か差し入れようか?】
そんな気はさらさらないくせに聞いてみる。
【ありがとう。悠仁さんが行ってくれるから大丈夫。また連絡するね】
「……そこは『大丈夫、ありがとう』だけでいいのよ」
晴子は馬鹿らしくなってスマートフォンをソファの上に投げ捨てた。
香代子の不調を知ってしまった以上、悠仁の事務所に行くのはどう考えても不自然。
せっかく下ろし立てのワンピースを準備したのに台無しだ。
「…………」
晴子は出かけることにした。
ゆく当てなどない。
会いたい相手もいない。
それでも、家にいるよりはずっとマシだ。
車のキーを人差し指に引っ掛けながら外に出る
ドアノブに鍵を入れたところで、
「あ」
隣のドアが開き、両手にたくさんの切り花を盛った城咲が出てきた。
「あ、晴子さん」
その言葉に晴子は目を見開いた。
「……どうして、名前を?」
「あ」
いつも涼し気な顔をしている城咲はよほど焦ったのか、両手に抱えた切り花の木蓮を落としてしまった。
「ああ、ええと。この間自分の表札を取り付けているときに偶然目に入って……」
(表札……?)
晴子は、テラコッタ風の城咲の表札の横につけてある市川家の大理石の表札を振り返った。
「急に名前で呼んで不気味ですよね。ただ素敵な名前だなって思って……あっ!」
木蓮を拾おうとしたところで、トルコギキョウを。さらにそれを拾おうとしたところで薔薇を次々に落としていく。
「……あーあ」
肩を落とす城咲に、「ふふ」晴子は思わず吹き出した。
「そんなに一度に運ぼうとするからですよ」
晴子はしゃがみ、一束一束拾うと自分の胸に抱いた。
「車までお持ちすればいいですか?」
微笑むと小さく息を吐きなが諦めたように、
「ーーお願いします」
軽く頭を下げた。
◇◇◇◇
「本当だったんですね」
エレベーターが動き出すと、晴子は横に並んだ城咲を見上げた。
「え?」
「フラワーアレンジメントの講師をしているって」
「ああ」
城咲は、はにかんだように笑った。
「専用の場所や定期的な教室があるわけではなくて、コミュニティセンターの夏休み企画とか、老人ホームの認知症予防セミナーとか、あとは企業さんに呼ばれて社内イベントとしてとか、いろいろですよ。いわば何でも屋って感じです」
1階に着き促されて晴子は先に降りてから振り返った。
「本業もありながら大変ですね」
「いやあ、半分趣味のようなもので」
城咲は後から降りながら晴子の脇に立ち並んで歩き始めた。
「あら、どっちが?」
悪戯心で聞いてみる。
「――もちろん、花屋の方が」
城咲がそう笑うと、雲の切れ間から日が差したのか、エントランスがぱっと明るくなった。
駐車場に出ると、城咲はその中で一番高そうなベンツに手を伸ばした。
「え」
思わず呟いた声は聞こえなかったらしい。
彼は後部座席に置いていた新聞紙の上に切り花を互い違いに並べると、
「ありがとうございます」
晴子の手からも優しく切り花を受け取った。
「晴子さんはこれからお出かけですか?」
清潔な柔軟剤の匂いに、ほんの少し若い男の汗の匂いが混じる。
「ええ、まあ……」
晴子は返答に少し困りながら、額にうっすら汗をかいている城咲を見上げた。
「今日はある団体のアレンジメント教室なので、外部の方は入れませんが、他の機会なら飛び入りも大歓迎ですので」
城咲はそう言いながら助手席を開けると、そこに置いてあった籠の中からチラシを1枚取り出した。
「もしよければ今度遊びにきてください。駅裏のコミュニティセンターのイベントで、当日参加もOKなので」
晴子はチラシを見下ろした。
市で開催している地域コミュニティーの一環らしい。
「定員30名と書いてありますが、いつもそんなに集まらないので」
城咲が苦笑して見せる。
「あら、わかんないですよ。噂が噂を呼んで、城咲先生の人気で、次は奥様方で溢れかえっているかも」
半分は冗談、半分は世辞のつもりで言ったが、城咲は一瞬で表情を真顔に戻してこちらを見下ろした。
「…………」
エントランスとは一転、薄暗い駐車場。
城咲の端正な顔に影ができる。
輝馬や凌空のように大きい目をしているわけではないのに、その瞳に引き付けられる。
吸い込まれそうな瞳とはこういうのを言うのだろうか。
いや、微妙に違う。
「……ピンクの撫子」
口を開いたのは城咲だった。
「花言葉、調べてくれました?」
(なんだろう。この感じ……)
まるで、
堕ちていくようなーーー。
顔が近づいてくる。
「し……」
発しようとした言葉は、城咲の唇に吸い込まれていった。
けして性急ではない。かといって悠長でもない。
城咲の唇という供給はまるでパズルのピースが合うように、ぴたっと晴子の需要と合致した。
先日、もしあのホームセンターの駐車場で唇を奪われていたら、なんてぶしつけなんだと怒っていた。
しかし今キスしなければ、意気地のない男だとおそらくは馬鹿にしていた。
晴子の乾ききった土壌に種を植えて水をあげ、少しずつしかし確実に育て上げてから、花を咲かせた瞬間に蜜を吸いに来た蝶のようだ。
口吻で優しく蜜腺にキスをして、甘い蜜を吸いとる蝶。
その若き蝶に何もかもを吸い取られてしまいたい。
身も心も、身分も貞操も、
家族の記憶さえも――。
「だめよ……」
晴子は城咲の見た目よりずっと厚い胸板を押し返した。
「すみません……。人の奥様に」
城咲が慌てて身を引くのに、
「そうじゃなくて!」
別に否定する必要もないのに晴子は声を高めた。
「婚約者がいるんでしょう。彼女さんに悪いわ……!」
そう言うと城咲は驚いたように目を見開いた。
「ああ、そうか。市川さんには言ってなかったですね。管理人さんには言ったんですが」
その市川さんの中には、晴子だけではなく紫音のことも入っているのだと思うと、胸の中がチクリと傷んだ。
「僕、婚約解消されたんです。なんでも向こうに気になる人ができたとかで、距離を置きたいといわれて。まあ事実上フラれたんです」
城咲は苦笑しながら言った。
「距離に勝てなかったとは思いません。僕がその男に勝てなかったということでしょう。だから恨みも後悔もありません」
城咲は爽やかに言うと、小さく咳払いをして言った。
「ですので、このマンションも売り払うことにしました。まだ買い手はついてませんが、近く引っ越すつもりです」
「引っ越す……?」
晴子は城咲を見上げた。
「短い間ですが、お世話になりました」
城咲は爽やかに微笑んだ。
「では、行きますね。手伝っていただき、ありがとうございました」
城咲は一礼すると、ベンツの運転席に回り、慣れた様子で乗り込んだ。
そして颯爽と駐車場を出ていくと、ホワイトパールのベンツは太陽の光を跳ね返し、駐車場に白い弧を描いた。
「――引っ越し……」
晴子は呆然と渡されたパンフレットを見下ろした。
自分の中に確かに燃え始めた何かに、意図的に胸を焦がしていた。