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「どうした?ティア」


 グレンシスの足が静かに止まり、ティアの背を優しく労るようにそっと撫でる。


「帰りたくありません」


 耳元で囁いた途端、グレンシスのたくましい腕が強張るのがわかった。


 駄目だ帰るぞ。そんな言葉を聞くのがとても怖くて、ティアは更にグレンシスの首にしがみつく。子供みたいに嫌々と首を振るのをやめられない。


「どうして嫌なんだ?」


 怖気が立つほど優しい口調でグレンシスから尋ねられても、答えたくなくてもっと激しく首を横に振る。


「そうか」


 ぽんぽんとティアの背を軽く叩きながら、ため息交じりにグレンシスは呟いた。


 でも、すぐに何かをひらめいたかのように、弾んだ声色に変えてこう言った。


「よしっ。ならちょっと、寄り道をしよう」


 そう言うが早いかグレンシスはティアを抱き直すと、カツカツと足音を響かせながら、とある場所へと足を向けた。


 ティアはずっと目を瞑ったまま、グレンシスの首にしがみついている。


 時折、グレンシスが何かを跨いだり、しゃがんだりしている気配が伝わるが、それでも目をつむったままでいる。


 ティアは子供のような駄々を言ってしまったことが、とても恥ずかしかった。

 

 今までずっと聞き分けよく、良い子な自分を心掛けていたのに、よりによって一番嫌われたくない人にワガママを言ってしまうなんて。


 そう悔やみつつ、そんなことでは嫌われたりしないという確信を持っている自分に呆れてしまう。


 そんなふうにティアがごちゃごちゃと心の中で考えていれば、忙しなく動いていたグレンシスの足が止まった。


 そしてグレンシスは腰を落とすと、あぐらを組んだ足の間にティアを収めると、軽く揺さぶりながらティアに声を掛けた。 


「着いたぞ、目を開けてみろ」


 言われるがまま目を開ければ、見慣れない景色がティアの眼前に広がる。


「ここは王城の中だけれども誰も来ない。俺だけの秘密の場所だ」


 先に答えを教えてもらい、ティアはほっとしてぐるりと辺りを見渡す。


 秘密の場所と言う名の通り、ここはひどく静かな場所だった。


 棟と棟の間にあるこの場所は、裏庭と呼ぶこともできない狭い空間だった。


 とはいえ、ここは王城だ。こんな人目につかない場所でも、地面には色鮮やかなタイルが敷き詰められている。


 生垣の針葉樹の葉が秋の風に揺れ、頭上からは秋のキラキラとした日射しが降り注ぎ、二人っきりの空間は柔らかい光で外部から遮断されているかのようだった。


「ティアに見せることができて良かった。なかなかの所だろう?」

「はい。すごく落ち着きます」


 素直に頷いたティアに、グレンシスは満足そうに笑った。そして後ろからティアを、ぎゅっと抱きしめる。


 きっとこのまま陽が沈んで、夜の帳が落ちて、月がぷかぷか夜空に浮かんでも、こうしたままで居てくれるんだろう。


(私が帰ると言うまでは……ずっと)


 グレンシスの妻になる人間は、とても幸せ者だ。宝物のように大事にされ、惜しみなく愛おしんでくれるのだろう。

 

 ティアは、心底羨ましいと思う。その隣にいる自分以外の女性を想像して、胸が締め付けられるように痛む。火鉢を押し当てられたかのような、ひりつくような痛みだ。

 

 それは嫉妬だった。


 ティアは生まれて初めて、手放したくはないという執着心を覚えてしまった。


 メゾン・プレザンという娼館の中でしか生きてこなかったティアには、失うものなど最初から少なかった。


 大好きな娼婦であっても、いずれは去っていく人間だと割り切って、心の全部を委ねることができなかった。


 バザロフやマダムローズに対しても、見捨てられるかもしれない怖さから、どうしたって一線を引いてしまっていた。


 母親を失って天涯孤独の身の上になってからは、何にも執着が持てなかった。自分の命でさえ。


 だから危険が伴う王女の婚姻の旅ですら命じられるまま同行し、何の躊躇もなく王女の身代わりを自分から申し出た。


 それなのに、今になって手放せないものができてしまった。


 しかも自分には立派な父親がいたから結婚しない言い訳がなくなってしまったし、国王は、移し身の術を軍事利用しないと宣言してくれた。


 だからもう隠れるようにメゾン・プレザンで過ごさなくてもいい。


 それでも意地をはり続け、自分がグレンシスの元を去ったら、どうなるのだろう。全部なくなってしまうのだろうか。


 過ごした日々も、甘く焦がれるこの気持ちも、自分の為に整えられた部屋も、大小のクマの縫いぐるみも。まるで幻だったかのように……。


「……そんなの」

「ん?どうした?」


 ぽつりと呟いたティアの言葉を、グレンシスはきちんと拾ってくれたが、ティアはそれに気づかない。


「無理!!やだ!!願い下げ!!」

「はぁ?」


 突如として大声を張り上げたティアに、グレンシスは目を丸くする。


「ティアお前、一体誰と喋っているんだ?」


 グレンシスは若干怯えているが、ティアはとてもすっきりとしていた。声に出したおかげで、何かが豪快に吹っ切れたのだ。


(もういいや。全部洗いざらい話してしまおう)


 ずっと隠してきた自分の弱さを知ったグレンシスが手を離すなら仕方がない。諦めが付く。失恋バンザイと胸を張ってメゾン・プレザンに戻ろう。ティアは腹をくくった。


「あのですね、グレンさま」

「なんだ」

「私、子供をつくるのが怖いんですっ」


 静寂に満ちていた二人だけの空間に、それはやけに大きく響いた。

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