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12月29日
箱根湯本温泉ホテルおかだでの三日目の朝はどこか名残惜しさを帯びていた。
それでも、胃袋は正直で再びバイキング会場へと足を運んだ。
湯気の立つ味噌汁の香り、焼きたてのパンの甘い匂い
色とりどりの和洋食が並ぶ光景は、何度見ても食欲をそそる。
玉子焼きはふんわりとろけるし、目の前で焼いてくれるアジの干物は香ばしい。
将暉さんはご飯をおかわりして鮭を頬張っているし、瑞希くんはフルーツを山盛りにしている。
仁さんは、いつも通りのペースで、少しずつ色々なものを皿に乗せていた。
俺も負けじと、最後の朝食を目一杯楽しんだ。
この旅が終わってしまうのは寂しいけれど
美味しいものを食べると、自然と気分が上向くものだ。
◆◇◆◇
朝食を終え、チェックアウトまで少しだけ時間があった。
将暉さんが「ちょっとコーヒーでも飲んでく?」と提案してくれて
みんなで「箱根カフェ」へ向かった。
湯本駅のすぐ近くにあるそのカフェは、朝から賑わっていた。
窓から見える早川のせせらぎを聞きながら、温かいコーヒーを一口飲む。
じんわりと体が温まっていく感覚が心地よかった。
一杯のコーヒーは、旅の疲れを癒し、最終日の活力を与えてくれるようだった。
このあと、朔久と話すことになっている。
胸の奥で、小さく緊張の波が打ち寄せるのを感じた。
午前中は、箱根湯本駅前の商店街でお土産選びに没頭した。
将暉さんは会社の部下と、巴くんに、瑞希くんは友達に上げるらしい。
仁さんもきっと仕事仲間や友人への土産なのだろう。
俺は兄や、いつも世話になっている友人たちの顔を思い浮かべながら、品定めを始めた。
名物の温泉まんじゅうは、ふわふわの生地と甘すぎない餡がたまらないと聞き、すぐに手に取った。
寄木細工の店では、その精巧な模様に目を奪われた。
一つ一つ手作業で作られた模様は、まるで芸術品のようだ。
おしゃれな雑貨屋さんに入れば、可愛いキャラクターグッズや繊細なガラス細工が並んでいて、どれを選んでいいか迷ってしまう。
瑞希くんが「これ、犬飼っぽくない?」
と、ちょっとシュールな顔の置物を仁さんの顔に近づけている。
仁さんは困ったように「アホか」と笑いながらも、まんざらでもない顔をしているのが面白い。
そんな風に4人でワイワイと品定めをしていると、不意に視界の端に見慣れた顔が映った。
朔久だ。
心臓がドクンと跳ねた。
昨日
「朔久、明日までいるらしいし、直接会って話してこようと思う」
と、みんなに宣言したことを思い出す。
ここでちゃんと、俺の気持ちを伝えなきゃいけない。
意を決して、3人に声をかけた。
「すみません、すぐ済むと思うので…ちょっと朔久と話してきてもいいですか?」
仁さんはすぐに察したのか、小さく頷いて
「行ってきな」と言ってくれた。
将暉さんも「がんば」っと陽気に手を振ってくれ
る。
瑞希くんは、何も言わずに「はよ行ってこい」と言わんばかりに無視を払うような動きをする。
そんなみんなに背中を押された俺は朔久に近づき、緊張しながら口を開けた。
「朔久…!ちょっと話したいことあって、今いい?」
朔久は一瞬、眉をひそめたように見えたけれど
すぐにいつものような穏やかな表情に戻った。
そして、何も言わずに商店街の少し奥まった人通りの少ない場所へ二人で移動した。
周囲の喧騒が遠のき
急に静かになった空間に俺の心臓の音が響いているような気がした。
朔久が先に口を開いた。
「楓…それで、話ってのは?」
俺は俯きがちに答えた。
視線を合わせるのが、怖かった。
「その…ずっと返事できてなかったから、復縁するかしないかの」
朔久の息を飲む音が聞こえた気がした。
「…ああ、っていうことは、その返答?」
「うん、ごめん、長引かせて…」
俺は深く頭を下げた。
自分の弱さ、優柔不断さに嫌気がさす。
「友達に…自分の気持ちわかんないのは仕方ないけど相手の気持ちくらい考えろって言われて、気づいたんだ」
本当に情けない。
「俺、朔久の言葉に甘えて…もしかしたらもう一度好きになれるかもって思って、朔久の気持ちをちゃんと考えられてなかった。だから、俺が気付かないうちに傷付けてたなら……ごめんなさい」
そう言うと、朔久は俺の頬にそっと両手を添え
優しく顔を上げさせた。
その指先が、ひんやりと火照った頬に触れる。
その温度が、妙に心地よかった。
真剣な、それでいてどこか切なさを帯びた朔久の眼差しが、俺を射抜く。
「楓……顔上げて?待つって言ったの俺なんだから、そんな暗い顔しないで」
朔久の優しい言葉に、俺は胸が締め付けられるような痛みを感じた。
「返事…大体は察してるけど、楓の言葉で聞かせてもらえるかな?」
優しさに甘えてしまった自分に、本当に申し訳ない。
ごくりと唾を飲み込んだ。
もう、後戻りはできない。
ここできちんと、俺の気持ちを伝えなきゃいけないんだ。
「う、うん。…….その、復縁は…できないって言うのが…俺の答え。今までたくさん尽くしてくれたのに応えられなくて悪いん、だけど」
不安げにそう言うと、朔久はフッと軽く息を吐いた。
「…薄々わかってたよ」
「え?」
予想外の言葉に、俺は思わず顔を上げた。
朔久はどこか達観したような諦めにも似た表情をしていた。
朔久は俺の動揺をよそに、どこか淋しそうに目を細めて続けた。
「だって楓、あの犬飼さんといるときがいちばん楽しそうなんだもん」
「へ?う、うそ……っ、そんなこと、ないと思うんだけど…」
俺は焦って否定した。
そんな風に、周りから見えていたなんて。
動揺が隠しきれない。
久は俺の真っ赤な顔を見て、さらに追い打ちをかけるように言った。
「俺、楓は犬飼って男のことが好きなんだとばかり」
「?!な、なわけないでしょ…!仁さんはただの……!」
ただの友達、と言いかけて言葉に詰まってしまった。
喉の奥に、言葉が引っかかって出てこない。
仁さんは、ただの友達…
この3日間、彼の隣にいると妙に落ち着くし、優しい笑顔を見るたびに心が温かくなって
仁さんに近づくと、少しだけ胸が締め付けられるような感覚に襲われることもあった。
それは、友達という言葉では片付けられない
もっと別の感情になりつつあることに、俺自身が気づき始めていたからだ。
でもそれがなにかは分からない。
朔久はそんな俺の様子を見て、どこか満足げに笑った。
「じゃ、話はこれで終わり。友達待たせてるんで しょ?」
朔久の言葉に、ハッと我に返った。
「あ、うん!…ねえ朔久、その……最後に聞きたいんだけど、これからは…友達でいてくれるってこと……?」
俺は縋るように尋ねた。
これまでの関係が、完全に終わってしまうのは寂しい。
でも、こんなことを聞くのはきっと都合が良すぎるだろう。
それでも
俺の問いに、朔久は少し考える素振りを見せたかと思えば、あっさりと答えた。
「んー…それは無理かも」
「……そ、そっか。そうだよね、こんな都合いいこと──…」
やっぱり、そうだった。
元カレに友達で居て欲しいなんて虫が良すぎる
友達でさえも居てくれないのは仕方ない。
俺は、肩を落とした。
しかし、朔久は俺の想像とは違う言葉を続けた。
「だって俺、まだ楓のこと諦めてないから」
「え?」
思わず声が出た。俺の耳を疑うような言葉だった。
朔久は悪戯っぽく笑った。
「だから、楓が運命の番を見つけたら、そのときは諦めてあげる」
「も、もう…なにそれ」
呆れて、でも、なぜか心が軽くなる。
朔久らしい、どこかふざけたような
それでいて真剣な言葉に、俺はつい笑みがこぼれてしまった。
朔久もつられて笑い、二人の間には以前のような重苦しい雰囲気はもうなく
どこか柔らかい空気が流れた。
「じゃあね」
朔久はそう言って背を向け、去ろうとした。
俺も「バイバイ」と手を振って、身を翻した
その時
朔久が俺の手首を掴み、ぐっと引き寄せた。
突然のことに体勢を崩し、俺は奴の胸に軽くぶつかる。
そして、朔久の顔が俺の耳元に寄せられ
「番が、もしも楓を泣かせるような相手だったら…そのときは、容赦なく楓のこと奪いに行くから、そのつもりでね」
低い、けれどはっきりと聞こえる声で囁かれた
その吐息と言葉にドキッとして、朔久の囁きが、俺の耳の奥に響き渡る。
振り向くと、朔久はもう俺から数歩離れたところで、いつもの優しい笑顔を浮かべていた。
そのまま軽やかに、人混みの中へ消えていく。
俺は顔を真っ赤にしたまま、その場に立ち尽くした。
心臓がドクドクと音を立て、体中が熱い。
朔久の匂いが、まだ俺の鼻腔に残っているような気がした。
耳まで真っ赤にしてスタスタと仁さんたちのところに戻ると
「今なんか囁かれてなかった?」
瑞希くんがニヤニヤしながら俺をからかった。
「ナ、ナンデモナイデス」
俺は完全に動揺していて、声も日本語がおぼつかないほどだった。
たった今、俺の身に起きたことがじられなくて、頭の中が真っ白だった。
瑞希くんのからかいに、仁さんと将暉も面白そうに笑っていた。
その後、俺たちはホテルに戻り
箱根湯本温泉ホテルおかだをチェックアウトした。
朔久との一件で少しばかり心がざわついたけれど
それでも友人たちとの旅行は本当に楽しくて、あっという間の3日間だった。