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チェックアウトを済ませた俺たちは、昼どきということもあり
将暉さんが事前に調べてくれていた昼食の店
「喜之助」へと向かった。
箱根湯本駅から少し歩いたところにあるその店は、趣のある木造の建物で
暖簾をくぐると、店いっぱいに魚を焼く香ばしい匂いと、活気ある話し声が響いていた。
昼時ということもあり、店内は多くの客で賑わっていて
その賑わいが旅の終わりを惜しむ気持ちを少しだけ紛らわせてくれるようだった。
案内された小上がりの席に腰を下ろすと、一日の疲れからか、誰もがホッと息をついた。
メニューを開くと、新鮮な海の幸を使った定食や、香ばしい肉料理がずらりと並んでいる。
どれもこれも美味しそうで、選ぶのに時間がかかった。
「うわっ、刺身いいじゃん、俺これにする!」
瑞希くんが一番に声を上げ、豪華な刺身の盛り合わせが載ったメニューの写真を指差した。
その目は、まるで子供のようにキラキラと輝いている。
将暉さんは少し悩んでから「俺はせっかくだし牛炙り焼きステーキ定食にしようかな」
と、湯気を立てるステーキの写真に釘付けになっていた。
仁さんは、少し考えた後
「俺は肉寿司にするかな」と呟く。
仁さんの肉寿司も、見るからに美味しそうだ。
俺もみんなにつられて迷ったけれど
結局瑞希くんと同じく「じゃあ、俺も刺身定食で」と注文した。
旅の最後に、新鮮な魚を堪能したい気持ちが勝ったのだ。
料理を待つ間、店員さんが「お飲み物はいかがですか?」と尋ねてきた。
瑞希くんが間髪入れずに「生!」と勢いよく注文する。
将暉さんも、俺も、と言うのかと思えば
すぐに言葉を引っ込めた。
「いや、でもこの後も運転あるしな……」と、ビールを飲むのを我慢しようと、躊躇しているようだった。
その表情には、はっきりとした葛藤が見て取れた。
将暉さんの様子を見た仁さんが声をかける。
「マサ、飲みたいなら運転変わるけど」
仁さんの気遣いは、いつも本当に自然で温かい。
将暉さんも少し迷っていたのを見かねて
「じゃあ俺運転しましょうか?」
俺はそう口にした。
みんなが俺の方を向いた。
「俺、いま酒飲まないので、仁さんと将暉さん飲んでいいですよ」
俺の提案に、まず瑞希くんが目を丸くして言った。
「え?あんた運転できるの?意外すぎ」
「え…瑞希くん俺のこと舐めすぎじゃない…?」
俺は思わずボヤいた。
免許だって持ってるし、たまには兄の車を運転することもある。
瑞希くんのリアクションに、少しばかりムッとして
そんな俺の言葉に仁さんはクスクス笑いながら言った。
「たしかに、初耳だったわ」
シンクロするように将暉さんまでもが
「いやー、楓ちゃんが運転してるの想像できないな」
と、仁さんにつられて笑っている。
「ちょっと!みんなして俺をなんだと思ってるんです?!」
俺は思わず抗議したが、みんなは楽しそうに笑っているだけだった。
でも、みんなが嬉しそうにお酒を飲んでいるのを見て
結局俺はノンアルコールのドリンクで一緒に乾杯した。
みんなが楽しそうなら、それが一番だ。
しばらくして、注文した料理が運ばれてきた。
瑞希くんは豪華な刺身定食に目を輝かせ
「いただきま~す」と勢いよく箸を伸ばした。
将暉さんの牛炙り焼きステーキは、湯気を立てていて香ばしい匂いが漂ってくる。
仁さんの肉寿司も、きれいに盛り付けられていて、どれもこれも本当に美味しそうだった。
みんなでワイワイと箸を進めながら、旅の思い出話に花を咲かせた。
キリン一番搾りを美味しそうに飲む瑞希くんと将暉さん
そして隣で穏やかに肉寿司を頬張る仁さん。
この瞬間が、かけがえのないものだと感じた。
「ごちそうさまでした!」
「喜之助」の暖策をくぐり、満腹になった俺たちは店を出た。
名残惜しい箱根の空気が、肌を撫でるように通り過ぎていく。
湯本駅前商店街の賑わいは少しずつ落ち着きを見せ始め
午後の柔らかな日差しが、歩道に長く影を落としていた。
新鮮な海の幸と、香ばしい肉料理。
腹は満たされ、心も温かくなるような最高の昼食だった。
この三日間、本当にいろんなものを食べたな
なんて呑気に考えていると、旅が終わる寂しさがじんわりと胸に広がるのを感じた。
でも、それと同時に、どこか清々しいような新しい気持ちも芽生えていた。
駐車場に戻り、将暉さんの車へと乗り込む。
俺は将暉さんからキーを受け取り、運転席へと収まった。
助手席には仁さん。
将暉さんは昼間の酒と、この数日間の賑やかな旅でさすがに疲れたのか
少し眠たそうに目をこすっている。
瑞希くんは、そんな将暉さんの腕を掴み
「将暉はこっち…!」
と、普段からは想像もできないほど甘えた声で言いながら後部座席に乗り込んだ。
普段の瑞希くんなら、将暉さんにですらツンツンしているのに
今はどこか甘えたような声と仕草で、将暉さんの隣にストンと収まっているのがなんだか新鮮だった。
将暉さんも、特に抵抗することなく
瑞希くんの隣に体を預けている。
二人の間に流れる飾らない、自然な空気になんだかほっこりした。
バックミラー越しに後部座席を見ると、瑞希くんが将暉さんの肩に頭を乗せ
将暉さんもたり前のように瑞希くんの頭をそっと撫でているのが見えた。
旅の疲れと、昼間のビールが回っているせいか、二人ともすっかり気が緩んで
普段はあまり見せないような無防備な姿を見せている。
その光景がなんとなく微笑ましくて、俺は思わず口元が緩んでしまう。
エンジンをかけ、車が静かに息を吹き返す。
アクセルをゆっくりと踏み込むと、車は滑らかに動き出した。
旅の終わりを告げるかのように、箱根湯本の街並みがゆっくりと後ろへと流れていく。
温泉街の賑わい、山々の緑
そして何よりも、この数日間を共に過ごした仁さんたちの笑顔が、走馬灯のように頭の中を駆け巡った。
助手席の仁さんがシートベルトを締める音が聞こえる。
彼の仕草の一つ一つが、いつも落ち着いていて、どこか安心感を与えてくれる。
俺もシートベルトを確認し、サイドブレーキを解除した。
しばらく走ると、後部座席から瑞希の甘えた声が聞こえてきた。
「将暉、帰ったら膝枕~…」
瑞希くんの声に、将暉さんはどこか嬉しそうな、少しだけ眠たげな声で答える。
「いいよ、いくらでもしたげる」
そんな将暉さんの返事に、瑞希くんはムッと頬を膨らませるのがミラー越しに見えた。
「違う……俺がしたげんの。運転疲れてんでしょ…だから俺が、癒す…っ」
「へえ、瑞希が?…そりゃ楽しみ」
瑞希くんがそんな風に甘えるなんて、本当に珍しい。
いつもはサバサバしてる瑞希くんが、将暉の疲労を気遣うのはなんとも恋人の時間っぽくて
少しだけ意外に思った。
それと同時に、二人の間の飾らない親密さ
甘えと甘やかしの関係に、少しだけ羨ましさを感じた。
俺も、誰かにああいう風に甘えられる日が来るのかな、なんて、柄にもなく考えてしまう。
そんなとき、仁さんが俺の方をちらりと見てくすりと笑った。
その優しい眼差しが、ミラー越しに俺と目が合った。
「なんか見せつけられてる感じ」
「ふふっ、ですね…」
俺は、バックミラーで将暉さんの肩に頭を押し付ける瑞希くんをもう一度見た。
将暉さんは、そんな瑞希くんの髪を優しく撫でている。
これが「癒し」っていうやつなのか。
見ていてこっちまで癒されるような温かい光景だった。
俺たちの間に流れる、心地よい沈黙もまた
この旅の素晴らしい一部だった。
箱根新道を走り、高速道路へと入ると
流れる景色は徐々に都会のそれへと変わっていった。
山々の深い緑が遠のき、アスファルトの道が延々と続く。
旅の始まりとは違う、少しだけ静かな車内。
瑞希くんと将暉さんは、時折小声で何かを話し合ったり、どちらからともなく寝息を立てたりしているようだった。
彼らが楽しそうに、そして安心しきって眠っているのを感じると運転席の俺の心も穏やかになった。
俺はハンドルを握りながら、この三日間の出来事をぼんやりと思い返していた。
ホテルでの騒がしい夜、温泉でのんびりした時間
そして、朔久とのあの会話…
朔久の言葉が、まだ耳の奥に残っている。
『犬飼さんといるときがいちばん楽しそうなんだも ん』
…本当に、そう見えていたんだろうか。
俺はただ、仁さんの隣にいると、妙に落ち着けた。
彼の穏やかな空気感に、自然と心が安らぐんだ。
それが、楽しそうに見えた、ということなのだろうか。
朔久が最後に囁いた言葉も、まだ胸に残っている。
『もしも楓を泣かせるような相手だったら…容赦なく楓のこと奪いに行くから、そのつもりでね』
あの言葉は、どこか安心させるような不思議な響きがあった。
朔久は、本当に俺のことを心配してくれているんだと思うと、少しだけ心が温かくなった。
諦めない、と言っていたけど
あれは朔久なりの俺へのエールだったのかもしれない。
そう考えると、少しだけ肩の荷が下りたような気がした。
隣の仁さんは、静かに窓の外の景色を眺めている。
時折、視線が俺の腕や、ハンドルを握る指先に向けられるのを感じる。
仁さんが何かを話しかけてくることはないけれど、その存在が隣にあるだけで俺は不思議と落ち着いていた。
彼の隣で運転していると
緊張よりも、穏やかな安心感が勝っていたのだ。