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「テムジン? 誰だそれは」
完顔襄は酒杯を傾けながら言った。
「オン・ハーンの話では、タタル族に深い恨みを持つ蒼き狼だとか」
「蒼き狼か」
完顔襄は鼻で笑った。
「草原には、腹をすかした狼などいくらでもいる」
幕僚が静かに口を開く。
「ですがオン・ハーンは、かなり買っている様子で」
「構わぬ」
完顔襄は地図の上に指を落とした。
そこにはタタル族の名がある。
「どのみち、裏切り者には代償を払わせねばならん」
「そのテムジンとやらが役に立つなら使うまで」
彼はそこで言葉を切り、
わずかに笑った。
「——草原の狼は、飢えている時が一番扱いやすい」
「餌をほおり投げるだけでいいからな」
完顔襄は用兵に長けた武人だった。
皇族にも近く、
北辺平定を任される将でもある。
彼は退却を装ってタタル族を誘い込み、
伏兵による挟撃でこれを打ち破った。
潰走したタタル族は、
オイジャ河へ向け雪崩れるように敗走を始める。
完顔襄は静かにそれを見下ろしていた。
「さて——蒼き狼とやら」
彼は薄く笑う。
「餌の時間だ」
「皆の者!」
テムジンの声が草原に響く。
「あの憎きメグジン・セウルトゥが、
この先のどこかにいる!」
兵たちの間にざわめきが走った。
「約束した通りだ」
「奴を討った者には、
望むだけの恩賞を与える!」
「戦利品は皆で山分けだ!」
兵たちが鬨の声を上げる。
テムジンはさらに続けた。
「もし戦死しても——」
その声が少し低くなる。
「その者が受け取るはずだった分け前は、
妻と子へ与える」
兵たちの目の色が変わった。
「心して励め!」
彼は馬上で振り返る。
「右翼はムカリ!」
「左翼はボオルチュ!」
二人の若き将がうなずいた。
テムジンは剣を抜き放つ。
「合図をしたら行くぞ!」
川向こうに敵兵の姿が見えた瞬間だった。
テムジンは誰より早く馬腹を蹴った。
「行けぇ!!」
そのまま先頭で河へ突撃する。
完顔襄は、
目の前の光景に思わず息を呑んだ。
当初、
苦戦も予想されていたタタル討伐は——
凄まじい勢いで進んでいった。
テムジン軍は、
獣の群れのように敵陣へ食らいつく。
タタル族の有力な武人たちは、
次々と討ち取られていった。
やがて、
最後の砦に火の手が上がる。
黒煙が草原へ昇っていく中、
タタル族はもはや、
かつての勢いを取り戻す力を失っていた。
完顔襄は、
この戦果にことのほか満足していた。
彼はこのケレイトの長に、
「王(カン)」の称号を与える。
以後、
オン・ハーンはこの後、オン・カンと呼ばれることになる。
さらにテムジンにも、
百人長の称号と多くの恩賞が贈られた。
草原の若き狼は、
ついにチャイ王朝にその名を知られたのである。
その夜——
オン・カンとテムジンは、
親子の盃を交わし、
オン・カンの息子、
イルカ・セングンとは義兄弟の契りを結んだ
「今日よりお前は、
我が子も同然だ」
オン・カンはそう言った。
テムジンは黙って杯を受け取る。
苦難ばかりだった彼にとって、
オン・カンは、
失った父イェスゲイの面影を持つ存在だった。
オン・カンは、
チャイ王朝の後ろ盾を得ると、
草原中央部の諸部族へ次々と兵を向けた。
一方で敵兵を釜ゆでにするなど残虐なジャムカは
その信を失いつつあった
メルキト族。
ナイマン族。
タイチウト族。
そしてジャダラン族。
その遠征の先頭には、
いつも一人の男がいた。
テムジン。
蒼き狼と呼ばれる若き武人である。
彼は誰より前へ出て戦い、
敵将を討ち、
戦利品を兵へ公平に分け与えた。
草原の戦士たちは、
次第に彼へ惹かれていく。
一方——
劣勢へ追い込まれたジャムカも、
黙って滅びを待つ男ではなかった。
彼は西方の大国ホラズムへ使者を送り、
援助を受けることに成功する。
さらに東方諸部族をまとめ上げ、
再び戦いを挑んできた
果てしない激闘の末、
草原の覇権はついにケレイト族の手へ傾きつつあった。
燃え落ちた部族の天幕。
敗走する騎馬の群れ。
勝者に従うため列をなす諸部族。
長く続いた戦乱は、ようやく終わりを迎えようとしていた。
その中心にいたのは、
ケレイトの王――オン・カン である。
そして、その右隣には常に一人の男がいた。
テムジン。
若き狼。
敗残の孤児から這い上がり、今や草原最強の武人となった男だった。
オン・カンは酒杯を掲げ、豪快に笑った。
「見たか、セングン」
「草原はようやく一つになる」
「テムジンは強い、もはや敵などおらぬわ」
周囲の将たちも笑う。
だが、その中で一人だけ笑わぬ男がいた。
嫡男セングンである。
彼は静かに父を見つめていた。
「……父上はいささか、テムジンに対して無防備なのではありませぬか」
宴の空気がわずかに止まった。
オン・カンは眉をひそめる。
「何を言う」
「テムジンはわが右腕だ」
「そしてお前は左腕」
「何が不満なのじゃ」
セングンは杯に口もつけず、低い声で続けた。
「奴は強すぎます」
「諸部族は今や父上ではなく、テムジンに従っております」
「いずれ……ケレイトを乗っ取るやもしれませぬ」
その言葉に、将たちがざわついた。
だがオン・カンは鼻で笑う。
「馬鹿なことを」
「わしとテムジンは親子の盃を交わした仲じゃ」
「奴は恩を忘れぬ」
「父上は人を信じすぎです」
セングンの声は冷たかった。
その瞳には、嫉妬とも恐怖ともつかぬ暗い炎が宿っている。
やがて彼は静かに立ち上がった。
「……父上に、お会せしたい人物がおります」
「ん?」
セングンは答えない。
ただ天幕の入口へ視線を向けた。
夜風が幕を揺らす。
その向こうに、一つの影が立っていた。
痩せた騎馬の男。
草原の闇をまとったようなその姿を見た瞬間、
オン・カンの表情が変わる。
「……お前は」
男はゆっくりと天幕へ足を踏み入れた。
その目は、獣のように鋭かった。
ジャムカ。
かつてテムジンと義兄弟の盃を交わした男であった。
「許しでも乞いに来たか」
露骨に顔をしかめ、
オン・カン は言った。
「もはや勝負は決した」
「草原は儂らのものじゃ」
酒気を帯びた声には、勝者の余裕が滲んでいる。
天幕の中では将たちが黙って成り行きを見守っていた。
その視線の先で、
ジャムカ は静かに立っていた。
かつて草原を震わせた男。
だが今は兵も土地も失い、痩せた狼のようだった。
オン・カンは鼻を鳴らす。
「儂が間に立ち、お主とテムジンの仲を取り持ってやってもよい」
「儂も過去のことは水に流そうではないか」
その言葉に、ジャムカのこめかみがぴくりと動いた。
――見下しおって。
内心では激しい苛立ちが燃え上がる。
かつては対等だった男が、
今や勝者の顔で施しを口にしている。
だがジャムカは感情を押し殺した。
ゆっくりと口を開く。
「……テムジンは恩を忘れぬ男」
「それは認めましょう」
静かな声だった。
だが、その場の空気がわずかに張りつめる。
「ですが」
「配下はどうでしょうな」
オン・カンの眉がわずかに動いた。
ジャムカは続ける。
「奴らは今や知っております」
「誰が草原で一番強いかを」
「誰が諸部族を率いている資格があるかを」
「……ケレイトより、テムジン軍の方が強いと」
天幕の空気が凍りついた。
将たちが互いに顔を見合わせる。
ジャムカはさらに一歩踏み込んだ。
「あの乞食同然だった男がですぞ」
「部族に見捨てられ、草原を彷徨っていた小僧が」
「今や諸部族の英雄だ」
「若い戦士たちは、あなたではなくテムジンを見る」
その時だった。
黙っていたセングンが口を開く。
「そうです、父上」
セングン の声は低かった。
「テムジンは危険です」
「今は忠義を装っておりますが……」
「いつ我らに牙を剥くかわかりませぬ」
彼は父を見据えた。
「やられる前に……」
言葉は最後まで続かなかった。
だが、その意味を理解できぬ者はこの場にいない。
オン・カンは黙った。
先ほどまでの豪快な笑みは消えている。
酒杯を持つ手が止まっていた。
天幕の外では風が鳴っている。
その音だけが、妙に大きく響いていた。
やがてオン・カンはゆっくりと目を閉じた。
そして――
初めて、疑念が胸に入り込んだ。