テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
父は私を愛してくれていた。
それだけは疑ったことがない。
誰が何を囁こうと、
どれほど陰で嘲られようと、
父だけは、
私を“長男”として扱った。
だが――
草原は私を拒んだ。
やはり私は、
生まれなければよかったのだ。
そう思った。
「私の婚礼?」
「そうだ」
父は羊肉を裂きながら、
当然のように言った。
「誰です?」
「オン・カンの末娘よ」
その言葉に、
母ボルテの顔がぱっと華やぐ。
「まあ……!」
珍しく声まで弾んでいた。
「いつになります?」
「来年あたりになるのではないか」
父は酒杯を傾けながら笑った。
「良縁じゃ」
「お前も妻を持ち、子をなし、
一族を導いていかねばならん」
「この草原に、“ジュチあり”とな」
豪快な笑い声が天幕に響く。
ボオルチュも、
ムカリも、
皆、祝うように杯を掲げていた。
その光景は、
確かに幸福だった。
私は、
初めて自分が
“許された”ような気がした。
この草原で、
生きていてもよいのだと。
父の隣にいてもよいのだと。
だが――
その時だった。
「……へえ」
低い声がした。
チャガタイだった。
弟は肉を噛みながら、
冷たい目でこちらを見る。
「オン・カンも災難だな」
場の空気が止まる。
父の笑みが、
わずかに消えた。
「どういう意味だ」
静かな声だった。
だが、
それだけで周囲は凍りつく。
チャガタイは肩をすくめる。
「いや別に」
「兄者を、娘婿に迎えるのだからな」
母の箸が止まった。
私は何も言えなかった。
言葉より先に、
胸の奥が冷えていった。
父はゆっくり立ち上がる。
天幕の空気が張り詰めた。
誰も動かない。
チャガタイだけが、
父をまっすぐ見返していた。
そして父は――
怒鳴らなかった。
殴りもしなかった。
ただ低く、
苦しむように言った。
「……ジュチは、私の子だ」
その一言だけだった。
だが私は知っていた。
父が戦っていたのは、
敵ではない。
草原そのものだったのだと。
「話が違う」
低い声だった。
だが、その場にいた誰もが、
天幕の空気が変わったことを悟った。
オン・カンは酒杯を持ったまま、
わずかに眉をひそめる。
「何がじゃ?」
テムジンはまっすぐ義父を見据えた。
「ジュチの嫁は、
チャウル・ベキだったはず」
しばし沈黙が落ちる。
やがてオン・カンは、
困ったように笑った。
「そう怒るでない」
「お主とセングンは義兄弟じゃ」
「ならば兄弟の子同士、
娶らせるのが自然というもの」
その言葉に、
テムジンの目が細くなる。
「……ばかな」
誰かが息を呑んだ。
だがオン・カンは気づかぬように続ける。
「それにもう一つある」
「セングンの息子、
トス・ブカにも嫁を取らせようと思っておる」
「そなたの娘、
コジン・ベキがちょうどよい」
「これで儂らは、本当に同じ一族じゃ」
オン・カンは満足げにうなずいた。
悪意はなかった。
だからこそ、
なお悪かった。
テムジンは何も言わなかった。
だが、
その沈黙の奥で、
何かが音を立てて崩れていくのを感じていた。
オン・カンは、
最後まで理解していない。
自分を、
対等なハーンとしてではなく、
“息子の一人”
として扱っているのだ。
草原を駆け、
血を流し、
共に戦ってきた。
だが――
この老人の目には、
今なお自分は、
かつて助けを求めてきた
みすぼらしい若者のままだった。
「……本気で言っているのか」
かすれた声だった。
「何をじゃ?」
オン・カンは首を傾げる。
テムジンは答えなかった。
ただ、
拳を握りしめる。
爪が掌に食い込み、
血が滲んでいた。
そして初めて、
テムジンは悟った。
この草原に、
二人の“カン”は
並び立てぬのだと。
私の婚礼問題は、
両家の同盟に、
深い亀裂を入れた。
父は、両家が
対等に並び立つ未来を考えていた。
だがオン・カンは違った。
あくまで父を、
己に従う者として扱おうとしたのだ。
父はそれを悟った。
あの宴の席で。
あの婚礼の言葉で。
――だが。
今になって思う。
父が本当に怒っていたのは、
それだけではなかったのかもしれない。
あの夜。
チャガタイが口にした言葉。
誰もが胸の奥で思いながら、
決して口にはしなかったこと。
そしてオン・カンもまた、
私を拒絶した。
長男ではなく、
“得体の知れぬ子”として見た。
それが父には、
耐え難かったのではないか。
父は、
自分への侮辱には耐える。
飢えにも、
敗北にも、
裏切りにも耐えた。
だが――
家族を傷つけられることだけは、
決して許さなかった。
父からその話を聞いた母は、
その場で崩れるように
うずくまった。
「……そんな……」
かすれた声だった。
やがて母は顔を覆い、
声を殺して泣き始めた。
肩が小刻みに震えていた。
父は何も言わなかった。
ただ黙って、
そんな母を見つめていた。
私は――
何も言えなかった。
慰めの言葉も。
怒りの言葉も。
何一つ。
ただ、
胸の奥だけが、
冷たく沈んでいった。
まるで草原そのものに、
“お前はここにいてはならぬ”
と告げられたようだった。
翌年。
止まっていた婚礼の話が、
再び動き始めた。
オン・カンの使者が訪れ、
改めて会談を行いたいと申し出てきたのだ。
父はしばらく黙っていたが、
やがて静かにうなずいた。
「……よかろう」
天幕の空気も、
どこか和らいだように見えた。
だが――
その時だった。
ムカリが、
足音も立てず父の側へ歩み寄る。
そして、
誰にも聞こえぬほど小さな声で耳打ちした。
父の表情が変わる。
「……本当か」
低い声だった。
先ほどまでの穏やかさは消え、
獣のような鋭い目になっていた。
ムカリは黙ってうなずく。
父は立ち上がった。
「いつでも出撃できるようにしておけ」
「兵には今夜から完全警戒を命じる」
ざわめきが広がる。
誰も理由を聞かなかった。
いや、
聞けなかった。
空気が変わったのだ。
見えぬ何かが、
すぐそこまで迫っている。
そんな気配だけがあった。
結局、
オン・カンへの訪問は中止となった。
そして数日後――
夜だった。
兵たちが急ぎ幕営を築き、
馬を繋いでいた時だった。
闇の向こうから、
絶叫が走る。
「敵襲!!」
次の瞬間、
無数の騎馬が闇を裂いて突っ込んできた。
矢が飛ぶ。
悲鳴が上がる。
火が燃え広がる。
混乱の中でも、
父だけは動じなかった。
馬へ飛び乗ると、
周囲を見渡し、
即座に命じる。
「カル・カロジト砂漠へ移動する!」
「そこで迎え撃つ!」
兵たちは一斉に動き出した。
敗走ではない。
統制された撤退だった。
その時、
父は振り返り、
私の肩を強く掴んだ。
燃える天幕の火が、
父の目に映っていた。
「……お前の戦だ、しっかりしろ」
私は言葉を失った。
婚礼。
ただそれだけの話だった。
だが気づけば、
草原そのものが燃え始めていた。
――私の婚礼の破談は、戦争を導いた。
「テムジンを探せぇ!!」
闇を裂くような怒号が響いた。
陣営を襲ったのは、
セングンだった。
無数の騎馬が炎を巻き上げながら突入し、
天幕を踏み潰していく。
矢が飛び交い、
馬が暴れ、
悲鳴が夜を埋め尽くした。
だが、
父の軍は崩れなかった。
「左翼をまとめろ!」
ムカリが叫ぶ。
「馬を下げるな! 押し返せ!」
ボオルチュは既に騎兵を率い、
突撃に転じていた。
混乱の中でなお、
父の側近たちは恐ろしく冷静だった。
私も剣を抜き、
父の後を追った。
燃える天幕の間を駆け抜け、
敵兵と斬り結ぶ。
誰が敵で、
誰が味方かもわからない。
ただ、
血と土と火の臭いだけがあった。
乱戦のさなかだった。
私は一人の男を見つける。
派手な軍装。
黒地に金の刺繍。
護衛を引き連れ、
馬上から必死に指揮を飛ばしている。
――セングンだ。
直感だった。
私は馬を止め、
弓を取る。
息を止める。
周囲の喧騒が、
一瞬だけ遠のいた。
そして――放つ。
矢は闇を裂き、
真っ直ぐ飛んだ。
男の身体が大きく揺れる。
馬上から崩れ落ちた。
(仕留めたか――!)
だが次の瞬間、
護衛たちが駆け寄り、
男を抱き起こす。
まだ生きていた。
血を流しながら、
助けられるように後退していく。
私は舌打ちした。
あと少しだった。
それから間もなく、
両軍は距離を取り始めた。
夜襲は失敗したのだ。
敵も味方も、
これ以上戦えば、
互いに壊滅しかねない。
燃え落ちる天幕を背に、
兵たちはゆっくり後退していく。
夜明け前の草原には、
呻き声と、
煙だけが残っていた。
橘靖竜
#切ない
#長編