紫音は部屋にこもり、夕飯も食べに来なかった。
凌空、健彦と一緒に、黙々と箸を口に運ぶ。
ちらりと視線を上げる。
晴子が気づいていないとでも思っているのか、凌空はテーブルの下でスマートフォンをいじりながら食べている。
食事中に何をそんなにやり取りをする必要があるのか。
両親と会話しないで、誰と会話をしているのか。
「おかわり」
晴子は隣から茶碗を遠慮がちに持ち上げた健彦を振り返った。
いつもはおかわりなどしないのに。
先ほど紫音とのやり取りの中で晴子を罵倒したことを気にしているのだろうか。
(……気の小さい男)
それならば晴子に歯向かうことなどしなければいいのだ。
この家の実質の主は晴子なのだから。
健彦は一家の財布。
働いて稼いでその大半を家族のため、晴子のために使わなければいけない、いわば奴隷だ。
そうしなければいけないようなことを、この男がやってきたのだから。
永遠に償わなければいけないようなひどいことを。
「……ご自分でどうぞ」
晴子は健彦の小さいくせにやけに離れた目を見つめて言った。
この目が……死ぬほど嫌いだ。
同じ目をした紫音が嫌いだ。
そして、あの女もーー。
「はあ」
向かい側に座っていた凌空が、バンとスマートフォンをテーブルに置いた。
そして無言で父親の手から茶碗を受けとると、キッチンに回り炊飯器を開けた。
(どういう風の吹き回し?)
晴子は凌空を睨みつけた。
いつも紫音以上に父親を嫌っているはずの凌空が、父親の茶碗に飯を盛っている。
信じられない思いで、ダイニングテーブルに戻ってきた凌空を見上げた。
「一家の大黒柱にそれはないんじゃないの」
凌空は茶碗を健彦に渡しながら、晴子を見下ろした。
「男に優しくされた娘に嫉妬するのは勝手だけどさ」
「………!!」
凌空が悪態をついた。
大嫌いな健彦にではなく、
人生で唯一愛したあの男にそっくりな目で晴子を睨み落として。
凌空は無言の晴子に背を返し、部屋に戻ってしまった。
健彦が気まずそうに咳払いをする。
晴子は、凌空の席に残された、鶏むね肉の生姜焼きやほうれん草のおひたし、ブロッコリーとエビの蒸しサラダをただ茫然と見つめていた。
◇◇◇◇
晴子が風呂を終えて部屋に戻ると、健彦はすでにベッドに眠っていた。
緩い寝息にたまに鼾が混ざる。どうやら狸寝入りではなさそうだ。
晴子は迷わず、その布団を剥いだ。
「………んん」
健彦が低い声を出す。
晴子はベッドによじ登った。
「……!!!」
ベッドの振動で起きたらしい健彦がギョッと晴子を見上げる。
子犬のような怯えた目。
そんなに怖いなら逆らわなければいいのに。
「ねえ、あなた」
晴子は低い声で言った。
「エサはあげました?」
「――?」
鈍い健彦はこちらの意図がわからないというように眉を寄せた。
晴子は健彦の頭の下から枕を引っ張りだすと、それで彼の顔を思い切り叩いた。
「今週のエサ、まだあげてないでしょ!知ってるのよ!パントリーに入れていたエサが減ってないから!」
晴子は防戦一方な健彦を殴り続けた。
「ちゃんと管理しなさいよ!!」
晴子は大きくなりすぎた声を慌てて抑えながら言った。
「死臭でもしたらどうすんの!?」
その言葉に、健彦が腕と腕の間から晴子を見上げる。
「―――――」
そして無言で起き上がると、首筋あたりを掻きながらベッド脇に足を下ろした。
スリッパを履き、静かに部屋を出ていく。
晴子はふんと鼻を鳴らしながら鏡台に座った。
本当に頭に来る。
意地も根性もないくせに、気まぐれに口ごたえしてくる夫も。
何を考えているのか全く分からない次男も。
少し男に優しくされたからって勘違いしている長女も。
「あ……」
晴子は自分もベッドから立ち上がった。
そしてクローゼットの陰においてあった花束を胸に抱いた。
「……よかった。まだ萎れてない」
いそいそとキッチンに回る。
包装紙を外し茎を2㎝ほどハサミで切ってから、買ってきたばかりの小ぶりの花器に入れると、ソネットはより素敵に見えた。
その美しさに満足する。
花を愛していない家族に見せてやるなど贅沢だ。
晴子はその花を、だれも立ち入れないキッチンの上下に別れたカップボードの窓際に置いてみた
高さもちょうどいい。
うっとりと見つめたところで、
「――――」
段ボールを抱えた健彦がパントリーから出てきた。
中にはレトルト食品や缶詰、ミネラルウォーターに乾パンなどの1ヶ月分の食料が入っている。
寝起きの体で重そうにそれを抱えた健彦は、あの部屋の前にそれを置くと、ダイヤル式の南京錠を回し始めた。
カチャッ。
金属音がする。
健彦はドアを開け、しばらく中を見つめていたが、やがて段ボールの箱を室内に置くと無言でドアを閉めた。
「ーー親子の会話とかないわけ?」
晴子がカップボードに片手をつきながら鼻で笑っても、健彦は振り返りもせず、また寝室に戻っていった。
(いっそ中の奴を連れて逃げてくれれば楽なのに)
晴子は舌打ちをしながらカップボードを開けた。
誰も開けないそこには、晴子の25年間で貯めた金が入っている。
健彦の稼ぎから、学費や生活費を抜いて、上手にやりくりして貯めた金だ。
そこらの馬鹿な主婦ならここまで貯まらなかっただろう。だからこの金は誰が何と言おうが晴子の金だ。
もう少し貯まったら。
市内に小ぶりでかつ新築マンションが買えるくらいの金額になったら。
ーーこんな家族捨てて、出て行ってやる。
(もしも輝馬が一緒に住みたいって言ったら、連れて行ってあげなくもないけど)
そう思いながら扉を閉めると、ピンク色のソネットがこちらを見つめていた。
「…………」
ニットカーディガンのポケットからスマートフォンを取り出す。
【ピンク 撫子 花言葉】
検索ウィンドウに文字を打ち込む。
「………!」
ダイニングから漏れる常夜灯でわずかに明るいキッチンで晴子は目を見開いた。
「純粋な、愛……」
浮かび上がった文字を読みながら、再びソネットを見つめた。
紫音がもらった黒薔薇が、ダイニングからこちらを見ていることには、気づかなかった。
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