コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
土間に机《たく》を並べ、外には、縁席と筵《むしろ》を敷いた小さな酒場には、異常な活気があった。
田舎で良く見る様式の店の奥からは、次々酒とつまみが運ばれている。
若い女達が愛想笑いし、外の風に当たりながら筵に座り込んで酒を酌み交わす客へ、注文の品を運んでいた。
その片隅で、きゃっと、小さな声が上がった。
「ちょいと!うちの子に、なにするんだい?!」
「なーに、挨拶しただけよ」
酔いから、呂律が回ってない客が、へらへらと笑った。どうやら酒を運ぶ女の体に触れたようだ。
古株だろう、きつい顔をした女が、すぐさま飛んで来くる。
「うちはね、酒とつまみを売る店なんだ。女達は、お客さんが思っているような役目を負ってないんだよ」
「けっ、なに言ってやがる。あれは、なんだ!女が酒を注いでるぞ!」
「そりゃ、うちも酒を扱う以上、そこまでは、やりますよ?じゃあ、お注ぎしましょうか?」
と、背後から清んだ声がしたとたん、客は、わあっ!と、叫んだ。
「あ、手が滑った」
色白で、切れ長の目の、都でも十分通用する美人が客の頭から酒注いでいた。
「よっ!春香!!いいぞっ!!」
他の客から、一斉に女に向かって声がかかる。
「このぉ!!」
酒浸しになった客の男は、春香と呼ばれた女に掴みかかる勢いを見せた。
と──。
「ここは、騒がしい。余所で、ゆっくり話しましょうや」
並みの男より、頭一つ抜きん出た、血の気の多そうな、がっしりとした体つきの男が酔った客の襟首を掴んでいる。
「な、な!」
酔った客は、つと、振り返り、自身の体を拘束する並外れた体つきの男を見る。
その外見は、背丈だけではなく容姿も、明らかにこの国の者とは違っていた。
茶色の髪に、緑瞳……。
「禽獣《きんじゅう》かっ!!」
「それが何か?」
「ええぃ!離せ!汚らわしいわっ!」
あー、はいはい、それじゃあ、と、いい放つと、男は客の襟首を勢い良く離した。
酔いが回っていることもあいまって、客の男は座る縁台から、地面へ、まともに転がり落ちる。
「く、くそっ!!!お前っ!!」
周囲の好機の視線と、みっともない自身の姿に、客の男は、覚えておけよ、と、お定まりの言葉を吐くと転がるように逃げ去った。
「あー、お代。飲み逃げかいっ」
春香の悔しげなつぶやきに、他の客は、一斉に大笑いする。
「手間かけたねぇ、黄良《こうりょう》」
「いやいや、春香、オレは、ここの用心棒、自分の役目を果たしただけよ」
見た目際立つ男──、黄良は、淡々と言った。
「よっ!男だねぇ!」
「さすが!黄良!南原一の用心棒!」
客達は、口々に囃し立てる。
「あー、どうせなら、天下一、にしてくれよ。南原一じゃーオレの格に合わねぇだろう?」
黄良の一言に、どっと、笑い声が上がった。
「そんじゃー、邪魔者は消えるぜ、皆、おとなしく、飲んでくれよ!」
おお!と、威勢のいい返事に送られ、黄良は踵を返した。
「春香」
途中、小さな声で店の女主を呼び止める。
うん、と、頷き、春香は黄良に続いた。
酒場の隣にある、宿屋を営む建物の奥──。
そこが春香の住まいでもあり、こうして、仲間と密談する場所でもあった。
部屋は、人が数人入っただけで、息が詰まりそうなほど狭苦しい。
壁には、琴が立て掛けられ、小箪笥と葛籠《つづら》が、ぎっしり置かれている。春香の本業、高官達の酒席で楽技を披露し華を添える、妓生の職に使う衣装を仕舞う為だ。
「春香、どうやら、都に動きがあったようだ。密使が入り混んできたようだぞ……」
黄良は、手下から、余所者、それも都訛りの男に村の入り口で出会ったと、報告を受けたのだと告げた。
「黄良、まさか、あたし達のことが?」
「それは、わからん。まずは、あの、学徒、の所を見るべきだ」
「だね、監視が入るとなると、まずは、あの悪徳長官の所だ。何が、南原府使だよ」
「春香よ、学徒には、都に後ろ楯がいるんだろう?」
「ああ、だから、やりたい放題。今までも、監査は入った。けどね、皆、その後ろ楯とやらの息がかかった輩ばかり、結局、不正無し。で、終わっちまう」
「……今度も……」
「ただね、黄良。酒場で見ただろ?近頃、田舎両班《いなかきぞく》が、大手降って、出歩きすぎてる。そろそろ、あたしらも、決めなきゃいけない時期が来てるんだよ」
「春香、お前」
危ない橋を渡る時が来たのだと、黄良の顔は曇る。しかし、それも、用心棒としての仕事だと、黄良は思い直した。
──その頃、夢龍は、パンジャと共に、村外れ、あと数里で街へ入るという場所にある小さな楼閣に来ていた。
「たまにな、父上が、息抜きを兼ねて遠乗りをした。この場所がお気に入りだったのだよ」
「言われて見れば、風光明媚な場所でございますなぁ。おや、あそこには、小さな池が、それも、図ったように菖蒲ですか、あの、群生する葉は……。時期になれば、紫色の花を咲かせることでしょう」
「パンジャ、お前、なかなか、詩人だな。ああ、節句になれば、村人達はこぞって、沐浴していたよ」
「そうでしょ、そうでしょうとも、菖蒲は、邪気払いになると言われてますから、更に、その場所で、節句の沐浴をすれば、魔除け効果は倍になりますなぁ」
節句の時期に池で沐浴すると、魔除けになると言われている。そして、菖蒲の葉を擦り付け、穢れを落とし、無病息災を願うのが庶民の間の習慣だった。
「ああ、春の南原は過ごし安い。色々と、祭りもあってな」
「へえーこりやぁ、また、良い時に、来たもんだ。坊っちゃん、少しばかり長いして、祭りとやらを楽しみましょうや」
「ついでに、沐浴もして、都の穢れを落として帰るか」
そりゃーいいや!と、パンジャは、大喜びだった。祭り、と、名がつけば、普段は飲めない酒も、下僕という奴婢の位のパンジャへも、振る舞われるからだ。
従者の喜び具合に、夢龍は思わず笑った。
そして、池の脇にそびえる様に植わる大木に目を移す。
「ああ、まだ……あるのだな」
「坊っちゃん?」
主人の、どこか遠くを望むような、しかし、昔を懐かしむにしては寂しげな様子に、パンジャは声をかけた。