テラーノベル
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「おい龍、そんなところで何ぼんやりしてるんだ。飯だぞ飯!」
食堂の喧騒を背負って現れた菊池の声は三月の少し冷えた空気を一瞬で塗り替えるほどに熱い
芥川が手にしていた古い新聞の「昭和二十三年三月六日」という日付を菊池の大きな掌が乱暴に、けれど暖かく覆い隠した
「………寛、顔が近いよ」
「近いのはお前の元気がねぇからだ」
「ほら行くぞ。今日は司書が奮発してお前の好きな菓子も用意してるってよ」
芥川は自分の「生」へと引き戻すその強引な腕の熱に密かに息をついた
この男は自分がかつていつ死んだかなんてこれっぽちも気にしていないような顔をしている
いや敢えて忘れたふりをして目の前の「今」を全力で肯定しているようにも見える
「寛、君は僕が死んだあの日何を思った?」
唐突な問いだった
芥川の視線は手元の新聞に落ちている
菊池は一瞬だけ動きを止めた
それからわざと乱暴に椅子を鳴らし座った
「何をって決まってるだろ」
「この馬鹿野郎俺を一人にするな、だ」
「お前の葬式で俺がどれだけ恥をかいたと思ってる。泣きすぎて弔辞もまともに読めなかったんだぞ」
菊池の言葉は刺々しいがその底には数十年経っても癒えない「置いて行かれた側」の傷跡が透けていた
「…済まなかったね。僕は君がいてくれると信じていたから安心して地獄へ行けたんだ」
「君なら僕の遺したもの全部をなんとかしてくれるって君という最強の『現実』を盾にして逃げたんだ」
「僕は重荷だったかい?」
菊池は芥川の肩を壊れ物を扱うような手つきで叩いた
「重荷?当たり前だ。お前は俺の人生で一番高価な『負債』だ」
「でもなお前という負債があったから俺は俺でいれたんだ」
菊池は真っ直ぐに芥川の目を見た
「お前という光を守るために俺は泥を被る覚悟ができたんだ。お前のおかげでただの男から『菊池寛』になれたんだぞ」
芥川の目が微かに潤んだ
置いていった側が抱えていた申し訳なさという地獄を「お前のおかげ」という言葉で一瞬にして極楽へ変えてみせたのだ
「君には一生叶わないな。貸しは増える一方だ」
「ああ、利息はたっぷりつけてもらうぞ」
二人はどちらかともなく笑い合った
置いていった者と置いていかれた者
その間にあるのは悲劇ではなく数え切れないほどの物語の貸し借りだった
「次はお前を一人で地獄には行かせない」
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