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引っ越しの日、坂城は偶然を疑った。
荷物を運び入れていると、隣の部屋のドアが開き、出てきたのは――都だった。
ほんの数秒、視線が交わる。
何かを言いかけて、二人とも同時に口を閉じた。
「……久しぶり」
先に声を出したのは、都だった。
あの頃と同じ、静かなトーン。
ただ、目だけが違っていた。何も映していない。
「まさか、隣とはな」
坂城は乾いた笑いを浮かべた。
偶然のはずがない、と思った。
この街で彼を見かけたのは三度目だ。最初は駅のホームで。次はコンビニで。
まるで何かを追うように――いや、違う。追われているのは、どちらなのか。
荷解きも終わらないうちに夜になった。
壁一枚向こうで、都の生活音がする。
湯を沸かす音。食器の触れ合う音。
テレビの音量は小さく、聞き取れない。
その静けさが、かえって鼓膜に残った。
ベッドに横たわる。
閉じた目の裏で、過去の光景が再生される。
同じような夜、同じような部屋で、都はいつも黙って本を読んでいた。
その沈黙が好きだった。
今は、それがただ痛い。
――トン。
壁の向こうで、何かが落ちる音。
反射的に体を起こす。耳を澄ませても、それ以上は何も聞こえない。
寝返りを打っても眠れず、気づけば朝を迎えていた。
数日が過ぎた。
挨拶も会話もないまま、隣人としての距離が固定されていく。
けれど坂城は知っていた。都は夜になると、必ず窓を少しだけ開ける。
風が流れる音がする。
その隙間から、都の息遣いが、ほんのわずかに混じってくる。
夜風に混じる呼吸音を、坂城は息を殺して聞いた。
何をしているのかは分からない。
ただ、眠っていないということだけが伝わってくる。
ある晩、坂城は思わず壁に触れた。
ひんやりとしたコンクリート越しに、微かに感じる生活の熱。
掌を這わせると、指先にかすかな振動。
――音楽。都が聴いている。
それは、かつて二人で繰り返し流していた曲だった。
「……まだ、聴いてるのか」
呟いた声が、闇に吸い込まれる。
胸の奥で、何かが疼いた。
彼は俺を忘れたのではない。忘れられないまま、隣に越してきたのだ。
その夜、坂城は眠れなかった。
眠らない夜が続いた。
朝になると、都が出かける音が聞こえる。玄関のドアの開閉、足音。
同じ時間に出勤し、同じ時間に帰ってくる。
まるで互いの生活を鏡合わせのように繰り返していた。
ある日の夜。
坂城が風呂から上がると、壁の向こうから声がした。
はっきりとした、低い吐息のような声。
電話かと思ったが、返す声は聞こえない。
短く息を呑むような音がして、坂城の指先が震えた。
――誰か、いるのか?
胸が焼けるように熱くなる。
分かっている。もう関係は終わった。
だがそれでも、許せなかった。
無関心を装いながら、心だけが隣の部屋に置き去りにされていた。
夜中の二時。
坂城は玄関を出て、隣のドアの前に立った。
ノックもできず、ただ拳を握りしめる。
薄い木の板の向こうに、都の気配があった。
呼吸のような静寂が続く。
――気づいている。お互いに。
それでもドアは開かない。
坂城は静かにその場を離れた。
戻った自室で、壁にもたれて座る。
向こうでも、同じように誰かが座っている気がした。
やがて、壁越しに声がした。
「……坂城」
囁くような音。
息が止まる。
呼ばれたのは、一年以上ぶりの自分の名前。
それだけで、胸の奥が崩れた。
返事をしようとして、できなかった。
何か言えば、また壊れてしまう気がした。
かわりに、指先で壁を一度だけ叩いた。
――トン。
短く、小さく。
少しの沈黙のあと、同じ音が返ってくる。
――トン。
それが合図のように、涙が落ちた。
誰もいない部屋で、ただ音だけが往復する。
再会も、許しも、もういらない。
互いの部屋で、互いの声を想像しながら、ただ夜を越える。
壁の向こうに生きていることを確かめ合う、それだけが救いだった。
都の声が、かすかに漏れた。
「……おやすみ」
坂城は瞼を閉じ、同じ言葉を心の中で返した。
壁越しの夜風が、静かに二人の呼吸を混ぜていく。
名前も呼べない距離のまま、二人は同じ夢を見ていた。