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真夜中のアトリエは、絵の具の匂いと乾ききらない汗の気配で満ちていた。
床に散らばったスケッチブックの上を、光がかすめる。
その中心に、椅子に縛りつけられた青年がいた。
新。
大学の美術サークルで出会ったときから、洋介はその目を忘れられなかった。
何を見ても、何を言われても、感情の色を映さない瞳。
それが怖くて、どうしようもなく惹かれた。
「……まだ、描いてるの?」
乾いた声。
新の目は、縄で擦れた手首を一瞥しただけだった。
怯えも、怒りもない。
そこにあるのは、ただの諦め。
「動くと線がずれる。もう少し我慢して」
洋介の声は穏やかだった。
筆を握る手は震えていない。
何枚も描き直して、ようやく辿り着いた。
この距離、この姿勢、この沈黙。
それが完成形だと思った。
新は俯いたまま、低く息を吐く。
「……お前、まだ俺が“好き”なんだな」
その言葉に、洋介の筆先が止まる。
静かな笑いが喉の奥でこぼれた。
「好きなんて軽い言葉じゃない。お前は俺の一部だ」
「怖いな、それ。まるで――」
「檻、みたいだろ?」
洋介は立ち上がり、筆を置いた。
窓の外には、雨が降っている。
室内の空気は熱く、重い。
新の頬を伝う一筋の汗が、灯りを受けて光った。
「逃げようと思えば逃げられる。ドアの鍵も開いてる」
「……でも、お前が見てるだろ」
その返答に、洋介は満足げに笑った。
見ているという事実が、何よりの鎖だった。
手を出さなくても、声を荒げなくても――
“視線”だけで縛ることができる。
「俺、前に言ったよな。お前の絵、嫌いだって」
「覚えてるよ。あのとき、お前が初めて泣いた」
「泣いてねえよ」
「目を逸らした。それで充分」
新は黙り込む。
その沈黙が、洋介には甘い。
いつも、何をしても無表情だった新が、今だけは感情を押し殺している。
それだけで、彼の存在が確かなものになる。
「……洋介、お前、いつか自分を壊すよ」
「そのときは、お前も一緒に壊れてくれ」
言葉が重なり、空気が軋む。
新の手首に残る縄の跡を、洋介が指先でなぞった。
新は身じろぎもせず、そのまま彼を見つめ返す。
無関心の奥で、微かな光が揺れていた。
「もう、終わりにしようか」
「……俺たちを?」
「違う。この絵を」
洋介は筆を再び取り上げ、最後の線を引いた。
乾いた音が部屋に響く。
描かれたのは、目を閉じた新の横顔――まるで眠っているように穏やかで、どこにも逃げていない。
「これが、お前の“自由”だ」
新は何も答えなかった。
ただ、息を整え、ゆっくりと目を開けた。
その視線が洋介を貫く。
感情のないはずの瞳に、今だけは確かな熱が宿っていた。
「……見せろよ、その絵」
洋介は微笑んだ。
「だめだ。これは俺だけのものだ」
新の唇がかすかに動く。
笑ったのか、嘲ったのか。
判別できないまま、洋介はその目を見つめ続けた。
互いを閉じ込めるように。
互いの中で、壊れていくように。
――外では、雨が止んでいた。