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柘榴とAI

第9算話 積層の果て
掛け算のことを考えると、ローリエの指は少しだけ熱くなった。
速いものに押し切られるのもいやだった。
遅いものに沈められるのも、もっといやだった。
そのどちらにも届かないまま、ただ見て終わるのが一番いやだった。
だから、掛ける側へ回ってみたいと思った。
坂を上がるあいだも、学校の机の上でも、部活で古い機械の画面を見ている時でさえ、
頭の中では何度も同じ形を組んでいた。
軽く置く。
流れを作る。
そこへ掛ける。
重さを足す。
最後に返す。
紙の上なら、きれいだった。
頭の中でも、たぶんきれいだった。
問題は、それが指へ落ちるかどうかだった。
放課後、ローリエは駄菓子屋の戸を開けた。
夕方には少し早い時間だった。
坂の上から来る風はまだ軽く、店先の吊り菓子も大きくは揺れていない。
おばあちゃんはレジの横で、缶のふたを拭いていた。
磨いているわけではない。
でも、拭かれたところから少しだけ輪郭がはっきりする。
「早いね」
ローリエはかばんを下ろした。
「掛け算、やりたいです」
おばあちゃんの手が止まる。
止まったのは一瞬だけで、すぐ次の缶へ移る。
「やりたい顔しとる」
「分かりますか」
「昨日から分かっとるよ」
ローリエは少しだけ口元をゆるめた。
見抜かれていることに慣れてきたのか、前より恥ずかしくはない。
その代わり、誤魔化しがきかない。
おばあちゃんは缶を置き、レジの奥から木箱を引き寄せた。
珠の入った箱。
練習用の少し軽いものも、少し古いものも、整った顔で並んでいる。
「掛け算はね」
珍しく、おばあちゃんの方から言葉が先に出た。
「増やすんじゃなくて、寄せる時もある」
ローリエはすぐには頷かなかった。
頭の中に、かけの一打目が戻ってくる。
少ない珠。
なのに、こちらの浅い流れが急に重くなったあの感じ。
「……重さを、前へ寄せる」
「そう思っとると外しにくい」
ローリエは机へそろばんを置いた。
木枠の角がいつもより少し硬く鳴る。
おばあちゃんが袋をひとつ立てる。
次に、薄い板。
その向こうへ小さな木箱。
「まずは軽く」
ローリエは水色の珠を取った。
広がる形。
その右に茶色のおはじき。
受ける。
最後に軽い数字の珠。
ここまではいつもと変わらない。
小さく流れを作る。
空気をずらし、板を揺らすくらいなら、もう何度もやってきた。
違うのは、この先だ。
ローリエはもうひとつ、少し重めの珠へ指を伸ばした。
そこで一瞬だけ、かけの目が頭をよぎる。
少ない珠。
静かな指。
待つ重さ。
「迷うなよ」
おばあちゃんが言った。
「はい」
ローリエは珠を上段へ入れる。
止める。
そこへ掛けるつもりで、右へひとつ重ねる。
弾く。
最初の流れが出る。
袋が揺れる。
板が少しだけ鳴る。
そこで、もう一度打つ。
パチ。
さっきまで軽かった揺れが、次の瞬間、少しだけ深くなる。
板の鳴りが二重になる。
袋の口が揺れたあと、遅れて胴が押される。
ローリエは目を細めた。
「……できた」
「ちょっとね」
おばあちゃんの言い方は淡い。
でも、間違いではなかった。
掛かった。
軽い流れに、あとから重さが寄った。
自分の手で、それが起きた。
大きくはない。
でも、確かに違う。
ローリエはそのまま、もう一度同じ形を試した。
次は少し早く。
少し深く。
数字をひとつだけ重くする。
最初の一打。
揺れ。
二打目。
重さ。
今度は、袋より先に板が倒れた。
ローリエは息を止めた。
きれいだった。
浅い流れに見えたものが、途中から急に厚みを持つ。
見た目より深い。
それが掛け算の気持ち悪さであり、強さでもあるのだと、少しだけ分かる。
「面白い」
思わず口から落ちる。
おばあちゃんはその言葉を止めなかった。
代わりに、木箱の位置を少しだけ遠くした。
「もう一段、先まで」
ローリエは頷いた。
次は、最初から掛ける前提で組む。
左を軽く。
右へ薄く。
最後に重さを寄せる。
そこからもう一度掛ける。
多段掛け。
頭の中でその言葉がふくらむ。
昨日のかけの一打が、今は少しだけ手の届くところへ来ている気がした。
ローリエは慎重に珠を選ぶ。
軽い水色。
茶色。
小さな珠。
そのあと、重め。
さらに軽く。
並べる。
止める。
一打目。
二打目。
三打目。
最初の流れは弱い。
でも、二打目で少し深くなり、三打目で木箱の手前の空気が持ち上がる。
足りない。
ローリエはすぐに分かった。
掛け方がまだ浅い。
重さを寄せきれていない。
「もう一枚」
おばあちゃんが静かに言う。
ローリエは頷く。
その一枚を、どこへ足すか。
右か、途中か、左へ戻すか。
そこで、また頭の中が少しだけにぎやかになる。
最適解を探し始める気配。
けれど今日は、それに時間を渡しすぎない。
見えた位置へ置く。
上段。
止める。
弾く。
乾いた音がして、木箱が後ろへずれた。
ローリエは小さく息を呑んだ。
今度は届いた。
板ではなく、もっと奥へ。
しかも、最初の見た目より重く。
「いい」
おばあちゃんが言う。
その一言は、思っていたより胸へ入った。
ローリエはもう一度同じ形を組もうとした。
でも、次の瞬間、指がわずかに止まった。
さっきの成功を、もっときれいにしたくなった。
今度は最初をもう少し軽くして。
その分、後ろを深くして。
いや、途中へひとつ差し込んだ方が——
「ほら」
おばあちゃんの声が入る。
ローリエは自分の指が止まっているのに気づいて、少しだけ眉を寄せた。
「はい」
「成功した次が、一番こわいよ」
「……分かります」
本当に分かった。
うまくいった形の次は、その形をもっと良くしたくなる。
その欲が、手の早さを削る。
ローリエは気を取り直し、別の形を試した。
今度は、最初の流れを小さくして、二打目を少し重くする。
三打目で寄せて、四打目で押す。
多い。
でも、頭の中ではまだ回る。
回るうちは、やりたくなる。
一打目。
二打目。
三打目。
そこまではうまくいった。
四打目を入れる直前、指先に妙なひっかかりが出た。
重い。
さっきより、そろばんの中が少しだけ深く鳴る。
ローリエは一瞬だけ動きをためらった。
だが、そのためらいを押し切るように、四打目を入れた。
パチ。
音が鈍い。
その瞬間、机の上の空気が変に固まった。
出るはずの流れが前へ行かず、手元の中で一度膨らみ、逃げ場を探してぶつかる。
「……え」
ローリエが声を漏らした時には、もう遅かった。
珠の列が、ひどく鈍く震えた。
一つひとつがばらばらに揺れるのではない。
全体が、きしむみたいに震える。
その次の瞬間、何も出なかった。
袋も、板も、木箱も、そのまま。
ただ、手元のそろばんだけが、重さを飲み込みきれずに鈍く鳴る。
ローリエの指が止まる。
完全に、止まった。
肩から先が、急に遠くなる。
頭の中ではまだ動けるのに、手がそこへついてこない。
「……っ」
息が詰まる。
おばあちゃんがすぐにそろばんへ触れることはなかった。
ただ、その止まり方を見ていた。
ローリエは、ようやくその名前を思い出す。
オーバーフロー。
欲張った時。
重さを超えた時。
処理が手元で止まる時。
でも、今のは欲張ったつもりではなかった。
軽く組んだ。
軽い流れに、少しずつ掛けただけだ。
それなのに、思っていた以上に深くなった。
「なんで」
指先のしびれが少し遅れて来る。
痛いほどではない。
けれど、止まった自分の手が、ひどく頼りなく見える。
おばあちゃんが静かに珠を戻した。
無理にほどかず、順番に、静かに。
「今日はここまでじゃね」
ローリエは、はい、と答えられなかった。
ここまで。
そう言われているのに、まだ頭の中では続きが見えている。
今の四打目をひとつ左へずらせば。
いや、そもそも三打目の重さを軽くすれば。
あるいは最初の流れが深すぎたのかもしれない。
でも、その考え方そのものが、今、少しこわかった。
軽く置いたつもりだった。
軽いはずだと思った。
それなのに、出た重さは軽くなかった。
「もう一回」
ローリエが言うと、おばあちゃんは首を振った。
「今はだめ」
「でも、原因を」
「今の顔で追うと、もっと踏む」
その言葉で、ローリエはようやく自分の顔が熱くなっていることに気づいた。
悔しさだけではない。
うまくいかなかった理由を、今すぐ突き止めたくてたまらない熱だ。
けれど、その熱のまま触れば、また深く入れすぎる。
ローリエは歯を食いしばり、手を引いた。
その時、戸が鳴った。
短い髪の子と、結び目のゆるい髪の子が、少しだけ息を弾ませて入ってくる。
ふたりとも、手の中にビー玉とおはじきを持っていた。
「こんにちは」
声をそろえたあと、すぐ机の上を見る。
立てた袋、板、木箱、それから止まった空気の名残。
短い髪の子が眉を上げる。
「どうしたの」
ローリエは答えに詰まった。
おばあちゃんが代わりに言う。
「ちょっと、手元で詰まった」
「詰まった?」
結び目のゆるい髪の子が、そろばんを見つめる。
こわがってはいない。
でも、いつもと違う何かを、ちゃんと感じている顔だった。
ローリエはやっと声を出した。
「掛けたら」
「うん」
「思ったより、重くなって」
短い髪の子がすぐ言う。
「欲張った?」
その言葉に、ローリエは返事が遅れた。
欲張ったのか。
そうかもしれない。
でも、そうじゃない気もする。
最初から重かったのかもしれない。
自分は軽いと思っていただけで。
「分からない」
そう答えると、短い髪の子は少しだけ首をかしげた。
結び目のゆるい髪の子は、おはじきを掌で転がしながら机へ近づく。
「軽そうだったのに?」
「うん」
「なのに、重かったの?」
ローリエは頷いた。
その問い方は単純だった。
単純だから、余計にごまかしにくい。
軽そうだったのに、重かった。
おばあちゃんは木箱を閉じ、レジの横へ戻した。
その動きが妙に静かで、店の中の空気も一緒に落ち着いていく。
「人によって、出る重さがずれることはある」
ぽつりと落ちたその言葉に、ローリエは顔を上げた。
「ずれる」
「思っとるより深く出る子もおる」
「なんでですか」
おばあちゃんはすぐには答えなかった。
代わりに、ローリエのそろばんを一度だけ見た。
木枠、珠、指の置き跡。
全部まとめて見ている目だった。
「その日の手もある」
「はい」
「珠の顔もある」
「はい」
「そろばんの癖もある」
ローリエは、その最後の一言に、少しだけ胸の奥が鳴るのを感じた。
そろばんの癖。
前にも聞いたことはある。
でも、今までは、持ちやすいとか、止めやすいとか、そのくらいの意味だと思っていた。
「癖って」
ローリエが言いかける。
おばあちゃんは、うん、とも、違う、とも言わなかった。
ただ、少しだけ曖昧に目を細めた。
「古い子は、ときどき深い」
それだけだった。
古い子。
ローリエは自分のそろばんを見る。
学校で使ってきたもの。
見慣れた木枠。
手のかかり具合も知っているつもりだった。
でも、今日の止まり方は知らない顔だった。
短い髪の子が、机の板を指でこつんと鳴らす。
「じゃあ、道具が悪いの」
ローリエはすぐに首を振れなかった。
悪い、とは思いたくない。
でも、軽く置いたつもりで重く出るなら、どこかで計算がずれている。
自分の手かもしれない。
珠かもしれない。
そろばんかもしれない。
結び目のゆるい髪の子が、小さな声で言う。
「でも、この前も、ちょっと重かったよね」
ローリエはその子を見る。
「え」
「チョウとやった時」
その一言で、空き地の感触が戻ってくる。
最初の一打。
小さいつもりだったのに、板より深いところまで届いた感じ。
そのあとも、軽く置いた形が思ったより前へ出た。
あの時は、たまたまだと思った。
初めてだったから。
緊張していたから。
そういうものだと思った。
でも、今日も同じなら。
「……たしかに」
ローリエの声は小さかった。
おばあちゃんは何も言わない。
言わないまま、レジの上へ細い紙袋を立てた。
いつもの練習用の、軽い袋だ。
「軽く一発」
ローリエは少し戸惑ったが、そろばんを持ち直した。
もう掛けるつもりはない。
ただ、軽く。
最初の一打だけ。
水色を上へ。
茶色を下へ。
軽い数字。
いつも通りの、軽い形。
弾く。
袋が揺れる。
その揺れのあと、遅れて、その後ろに置いた小さな紙札までひらりと動いた。
短い髪の子が、すぐに言う。
「今の、後ろまでいった」
ローリエも見ていた。
紙袋だけが揺れるつもりだった。
でも、その向こうまで少しだけ届いた。
軽く入力したつもりでも、重い結果が出る。
はっきりしたのは、これが初めてだった。
「……なんで」
ローリエは、自分の手ではなく、そろばんそのものを見た。
木枠の端。
珠の並び。
使い慣れたはずの形。
今日まで、授業の道具としてしか見ていなかったもの。
そこに何か、見えていない癖があるのかもしれない。
おばあちゃんがレジへ戻りながら言う。
「決めつけるのはまだ早いよ」
ローリエは顔を上げる。
「じゃあ」
「でも、見たことは忘れん方がいい」
それは答えではなかった。
けれど、答えより少しだけ重い置き方だった。
見たことは忘れない。
軽いと思ったのに重かったこと。
掛けた瞬間に、自分の予想より深く沈んだこと。
手元で止まり、動けなくなったこと。
オーバーフロー。
あの鈍い震えが、まだ指先のどこかに残っている。
短い髪の子が、机の端へ頬杖をつく。
「こわいね」
「うん」
ローリエは正直に頷いた。
こわい。
速い相手とは違う。
重い相手とも違う。
自分の中の予想がずれていることが、こんなにこわいとは思わなかった。
結び目のゆるい髪の子が、そっと言う。
「でも、その子、怒ってるわけじゃないよね」
ローリエは少しだけ息を止めた。
その子。
おばあちゃんと同じ言い方だった。
その子。
このそろばんのことを、そう呼ぶ。
「怒ってる」
と言いかけて、やめた。
怒っているようには見えない。
ただ、思ったより深い。
こちらの軽さと、向こうの深さが、同じ場所にいない感じ。
「分からない」
ローリエはそう言った。
「でも、思ってたのと違う」
おばあちゃんが、そこで初めて少しだけ口元をゆるめた。
「それが見えたなら、今日の負けは空じゃない」
その一言に、ローリエは机の上を見つめた。
空じゃない。
痛い敗北だった。
止まった。
動けなかった。
しかも、自分の判断だけじゃなく、自分の道具まで信じきれなくなりかけた。
それでも、空じゃない。
夕方が少しずつ店の中へ入ってくる。
木の棚の影が長くなり、缶のふたの丸さが前より深く見える。
珠の色も少しずつ沈み、そのぶん輪郭だけがはっきりする。
ローリエはそろばんを袋へしまいかけて、やめた。
代わりにもう一度だけ、木枠を指でなぞる。
いつもと同じ感触。
でも、同じじゃない気がする。
どこが違うのかはまだ分からない。
分からないまま、見てしまった。
「また来る」
ローリエが言うと、おばあちゃんは当然みたいに頷いた。
「来な」
短い髪の子が笑う。
「今度は止まらないでね」
結び目のゆるい髪の子も、小さくうなずく。
「でも、ちょっとだけ、その深いのも見たい」
ローリエは苦く笑って、でも少しだけ本気で困った。
「こわいこと言うなあ」
「だって、気になるし」
短い髪の子はそう言って、ラムネの包みを握り直す。
結び目のゆるい髪の子は、おはじきを掌の中でころりと鳴らした。
坂の町は、今日もいつも通りに見える。
でも、ローリエの手の中だけが少し違っていた。
軽いはずなのに重い。
浅いはずなのに深い。
そのずれが、これから先のどこかで、もっと大きく口を開く気がする。
店を出る時、戸の木が小さく鳴った。
風はもう昼の軽さを失い、坂の下から少しだけ冷えて上がってくる。
ローリエは坂へ出て、一度だけ振り返った。
レジの向こうで、おばあちゃんが缶のふたを閉める。
静かな音だった。
その静かさの中へ、自分のそろばんの鈍い震えが重なって聞こえた気がした。
まだ、確かな形にはなっていない。
でも、何かがおかしい。
その違和感だけが、暮れかけの坂を下りるあいだ、ずっと手の中に残っていた。
コメント
1件
おお、面白かった……! 「軽いはずなのに重い」っていう違和感、すごく鮮明に伝わってきた。そろばんに「癖」があるっていう発想、それ自体がもう一つの世界のルールみたいで惹かれる。ローリエが「軽く置いたつもり」なのに、奥まで届いてしまう感覚、自分にも覚えがあるような気がしたよ。 それに、おばあちゃんの「成功した次が一番こわいよ」って台詞、すごく深く刺さった。この世界の空気感、とても好き。続き、読みたくなるなあ。