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怜が奏を見下ろしながら笑みを映し出した瞬間だった。
不意に怜の面差しに重なった、元カレ、中野の行為直前に見せたあの下衆な笑い。
十年前の記憶がよみがえり、今まで彼が与えてくれた快楽の坩堝が一気に闇の坩堝へと変貌した。
奏の表情は青ざめ、みるみる恐怖に慄き、身体が硬直して震え出す。
彼女の表情を見逃さなかった怜が、奏に視線を落とすと、色白の上半身には無数の細かい泡が覆っている。
「奏? どうしたんだ?」
怜の心は焦りの色に満ちていたが、敢えて落ち着いた声音で問いかけると、大きな黒い瞳は瞬きせずに怜を凝視し、小さな唇は薄らと開いたまま。
奏の表情は強張った状態で、覚束ない様子で首を横に振っている。
(過去を…………思い出したのか……?)
怜は、そのまま彼女の様子をじっと見続けた。
「こ……怖い…………こわ……い……怖い……怖い…………怖い!」
顔を歪にさせながら、目をギュっと閉じて首を激しく横に振る奏に、怜は堪らず彼女の背中に腕を回して抱き起こした。
怜は、壊れてしまいそうになるほど、奏を掻き抱いた。
「怖かったよな。ごめんな、奏……」
小さな頭を胸元に引き寄せ、泡立つ背中を、宥めるように撫でまわし続ける。
長い黒髪に唇を落とし、奏の様子が落ち着くまで、怜は強く抱きしめ続けた。
奏の過去のトラウマが、予想以上に深かった事を、改めて痛感する怜。
彼女をここまで苦しめ続けた、かつての恋人、中野に激しい憤りを覚えた。
『かつての恋人』と思うだけでも反吐が出そうになるほどだ。
これまでも、怜は過去の恋人たちに対し、しっかりと向き合ってきたと思っている。
だが、奏に対しては違う。
彼女の心に蔓延っている『黒ずんだ影』を取り除き、怜の手で彼女を救い、幸せにしたい、笑顔を見たいと思うのは、彼の人生三十三年間で、初めて思った事だ。
人は、ある程度生きてきたのなら、何かしらの過去はあったりするだろう。
しかし、奏の心と身体に負った傷は根深いものだ。
まして、その元凶が初めての彼氏。
しかも奏が彼氏と思っていた中野は、奴からすれば、奏は単なる浮気相手であり、純潔を強引に奪った卑劣極まりない男。
そんな男とその幻影に、奏は十年もの間、苦しめられてきたのだ。
(奏の過去の傷を癒すのは俺しかいない。必ず……癒してみせる。そして、彼女の心からの笑顔を……俺が取り戻す……!)
密かな誓いをたて、怜は怯え続ける奏に言った。
「大丈夫だから。奏のそばに、俺は……ずっといるから。何も心配する事はない」
奏は甘えるように怜の胸に顔を埋めながら、首を横に振る。
「怜さん…………ごめんなさい……ごめ……んな……さ…………い……」
消え入りそうな声で怜に謝る奏に、彼は胸が張り裂けそうになってしまう。
「奏が謝る事はない。奏が悪いなんて思う事は……何一つないんだ。だからもう、謝るな……」
怜の声音に安心したのか、奏はまだ彼の胸板に顔を寄せながら、縋るように首を横に振り続けている。
怜は小さな顎に手をやり、自身に向かせると、薄紅の唇を塞いだ。
怜が与えてくれるキスは、今の奏にとって極上の甘味。
心も身体も溶けてしまいそうな口付けは、安堵感と至福の時を得られるのだ。
静寂に包まれているベッドの上で、怜は長い事、奏の華奢な身体を抱きしめた。
背中を撫で、子どもをあやすように触れる怜の指先が温かい。
時折、奏の髪を長い指先で梳かすと、彼女は瞳を閉じ、彼の胸板に寄りかかる。
「少しは……気持ちが落ち着いたか?」
穏やかな面持ちで問いかける怜に、奏はコクンと頷く。
「怜……さん」
「奏? どうした?」
怜は奏の顔を覗き込むと、不安げな表情を見せながら言葉を零す。
「私の前から……突然いなくなったり……しない……です……か……?」
大きな瞳を潤ませ、掠れた声音で聞いてくる奏に、怜は思いもしなかった事を言われて瞠目した。
心臓が鷲掴みされ、彼女を抱きしめる腕に、更に力が込められる。
「そんな事するわけないだろ? 俺は奏に惚れてるんだから。逆に、奏が俺の前から突然消えてしまいそうで怖い……」
怜がゆっくりと奏を支えながら横たわせると、包み込むように抱きしめた。
「奏。今日はもう寝よう。俺がずっと……抱きしめてるから」
彼女が覚束ない様子で頷きながら、怜の背中に腕を回す。
二人は抱きしめ合ったまま、互いの体温を直に感じながら眠りに堕ちた。