本屋に入った海斗は、いつも立ち寄るコーナーを端からゆっくりと見て歩いた。
平日の昼下がり、店内にいるのは老人や主婦、仕事の合間のサラリーマンが多い。
マスクで顔の半分が隠れているので、誰も海斗には気づかなかった。
店内をくまなく見て歩いた後、海斗の買い物かごには五冊の本が入っていた。
(もう見落としたものはないかな?)
そう思いながらレジに向かっていると、右の棚に「天体」の文字が見えたので、
海斗はそのコーナーへ行ってみた。
(月の本はここにあるのかな?)
天文コーナーの棚を見ると、星座や星、星景写真など様々な種類の本があった。
右側には月のコーナーもあり、月に関する本がいくつもある。
(天文関係の本って、こんなに色々あるんだな)
海斗はその中の一冊を手に取り、パラパラとめくって中を見た。
するとそこには月の写真と共に、いくつものクレーターの名前が記されている。
(晴れの海、静かの海……)
女性に聞いた地名を探すと、確かにあった。
教えてもらった名前以外にも、様々な名前の海がある。
なかなか面白そうだなと思った海斗は、その本も買う事にした。
本屋を出ると既に日が傾き始めている。
海斗はタクシーで家へ戻る事にした。
その頃美月は午後一時からの教室を終え、片づけをしている最中だった。
この後もう一本担当する教室がある。
午後六時からの教室は、お勤め帰りのOLの生徒さんが多い。
次の教室が始まるまでの休憩時間、ミキ先生と社長は食事をしに外出した。
美月は、買っておいたサンドイッチを出して夕食がわりに食べる。
美月がこの教室に生徒として通い出したきっかけは、うまく行かない結婚生活からの現実逃避だった。
元々物を作ることは好きだった。
手を動かしている間は無心になれるのも良かった。
なぜ彫金教室にしたのか?
それは元々アクセサリーが好きだったから。
確かにそれも理由の一つではあるが、それ以外の理由もあった。
本当の理由は、自分にとってかけがえのないたった一つの指輪が欲しかったからだ。
結婚していたのだから夫からもらった指輪があるじゃないか? そう思う人もいるだろう。
しかし美月が夫からもらった指輪は『かけがえのない』指輪ではなかったのだ。
宝石が偽物だとかそういう訳ではなく、美月にとってそれは真実の指輪ではなかった。
美月は子供の頃から婚約指輪に対する憧れがとても強かった。
子供の頃読んだ漫画の中で、お金がないガラス職人の男性が
恋人の為にガラスの指輪を作るというとてもロマンティックな物語があった。
子供心にすごく感動した。
それを読んで以来、美月は自分が結婚する時にはその漫画のように
心のこもったかけがえのないたった一つの指輪が欲しいと思っていた。
しかし現実は違った。
婚約指輪を買う際、元夫は自分の母親に指定されたデパートの宝石売り場に美月を連れて行った。
そして美月の意見など何も聞かずに、ただ予算に見合ったリングを三つ出してもらいそこから選べと美月に言った。
美月は指輪の価格や石の大きさは、正直どうでもいいと思っていた。
それよりも、二人で指輪を選ぶ『行為』そのものを大切にしたかった。
一生に一度の事だからこそ、思い出に残るような一日にしたかった。
しかし残念な事に、元夫には美月に対するそんな配慮は全くなかった。
言いたい事を言えないまま、あの時は我慢をして元夫に従った。
そして不思議だったのは、元夫は買った指輪を一度家に持って帰ると言った。
美月はなぜ元夫が家に持って帰るのか意味がわからなかったが、次のデートで渡すと言われたのでそんなものかと承諾した。
しかし皮肉な事に、離婚の際その時の意味を知る。
美月はそれを知って愕然とした。
あの時元夫が指輪を家に持って帰ったのは、買った指輪を母親に見せる為だったのだ。
なぜなら、指輪の代金は元夫の母親が支払ったからだ。
離婚の際、美月は元夫に指輪を返せと言われた。
その指輪の代金は母親が支払ったので、指輪は母親に返さなくてはならないからと言うではないか。
美月はその時自分の愚かさを知った。
婚約指輪を買いに行ったあの時の違和感を見過ごしてはいけなかったのだ。
そしてあの時結婚をやめるべきだった。
そんな思いが今も時折脳裏を過る。
しかし済んでしまった事は仕方がない。
だから今は淡々と目の前の暮らしを大切にする事に集中している。
離婚後、美月は結婚前の趣味だった天体観測を再開した。
自由を手に入れたら好きな事に没頭できる幸せ。
美月にとっての本当の宝石は、夜空に輝く月や星なのかもしれない。
夜空に手をかざすと、美しい星が指輪になってくれる。
そして心がしんどい時は月が慰めてくれる。
もう恋はしない。
美月はそう決めていた。
その時、昨夜公園で話しかけてきた男性の顔が頭に浮かんだ。
思わず美月は頭を左右に振る。
たまたま偶然話をしただけで、もう会う事もないはず。
そう自分に言い聞かせながら窓の外に目をやると、空がピンク色に染まり始めた。
「夕焼け……」
その幻想的な風景をしばらくじっと見つめていた美月は、
時計を見てから慌てて残りのサンドイッチを食べ終えると、次の教室の準備に取り掛かった。
コメント
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美月さんも海斗さんもお互いどこかしら相手に惹かれる部分があったんですね✨無意識の一目惚れ💕