秋の朝特有の、冷えた空気が全身を包む。
その状態で自転車を漕げば、さらに刺さる冷気が追加される。鈍く緑色に照る伸ばした髪が、通り過ぎてゆく冷気にのる。
そして、顔の感覚が少しずつ遠くなってきた頃に、通っている神社の鳥居が見える。古びた石造の、立派な鳥居。木々に支えられるように立っている。カチャン、と自転車を道脇に停め、木のてっぺんまで伸びている階段に目を向ける。私の朝は、いつも、ここから始まる。
主人公
名前は翡翠心湖。
目利きが自身の武器。木ノ下病院勤務。患者も仲間の異変も見逃さない。なぜか水瀬にだけ通用しない。女性看護師。
登場人物
名前は名取蒼。
人懐っこくて笑顔でその場を和ませる才能を持つ。木ノ下病院勤務。翡翠と日向のことを陰ながら支えている。男性看護師。
名前は日向薫。
木ノ下病院勤務。2人の看護師の手綱を握る、頼りがいのある唯一の女性医師。だが実はかなりの仲間想い。翡翠の目利きの力を頼りにしている。
名前は水瀬蓮。
????。
名前は倉橋波華。
木ノ下病院に入院している女の子。事故により聴覚を失う。一緒に手話を学ぶことで、翡翠と河口と親しくなった。水瀬とは????。
「おはようございまーす」
朝の静かな雰囲気を壊さぬよう、爽やかに挨拶することを心がける。その挨拶に一番に反応してくれるのは、いつだって日向さんだ。でも、昨日のこともあるから、いつもの清々しい挨拶じゃないと思うけど。
「おはようございます、翡翠せんせ!」
「日向先生。『先生』じゃないんだから、その呼び方やめてくださいって言ってるでしょう?」
「あ〜あ、また日向が翡翠せんせーのこといじってる」
(今日は、いつもの爽やかさがないなぁ)
昨日来た患者さんに、さんより医療の先生っぽいことをしてしまったせいで、2人からの翡翠先生コールが絶えない。
そして、その賑やかな雰囲気のまま、日向さんのことを苗字で呼ぶ蒼くんにも被害が及ぶ。
「こら蒼。あなたは私のことちゃあんと先生って呼ばなきゃダメでしょ?」
「なんでですか⁉︎俺のことは呼び捨てで呼んでますよね?」
「私は、ここの、『先生』、だからね」
子供に言い聞かせるように、文節に区切って圧をかける。
それを天然&やんちゃ青年には効かず、簡単に跳ね返す。
「俺だけ呼び捨てなんて理不尽すよっ。翡翠せんせーのだってちゃん付けするのに」
あなた年下でしょ⁉︎そんな変わんないすよ!
私抜きで飛び交う会話は、微笑ましいというかなんというか。いつも思うけど、朝から体力すごいなぁこの2人。ふうっとわざとらしいため息をついて、それぞれの表情を確認する。
日向薫さん。31歳。こんな朝早くから冗談をふっかけてきていることから、今日も体調面では大丈夫そうだということがわかる。山咲さんは無理してしまう時もあるが、笑った筋肉が硬直していない。偽っていない素の状態だということだろう。
名取蒼くん。23歳。改めて、「おはようございますっ」と、ニカッと笑顔を向けてきてくれた彼は、いかにも元気そうだ。この明るくて人懐っこい性格にはいつも助けられている。患者さんに1番に寄り添い、受け入れられている。
ただ、元気に見せることは彼の得意分野。
…あの癖が出ている。
「蒼くん、どこか痛いの?」
「ぁ……。えー……バレます?普通」
「…いつもの癖が出てるよ」
まじっすか、と困ったように頭をかく。この様子だと、また日向さんに頼ってしまいそうだ。
「私、看護師だし、ここの規則だから、治療はできない。だから具合悪かったら、立花先生に診てもらって?」
日向さん、と呼びかけると、彼女の瞳にスッと影が落ちた。
「ん。了解です。蒼〜診察室来てください」
すれ違い様、蒼くんがすんません、とつぶやくのが聞こえた。
謝ることないのに。
2人が診察室に入った後、急に静かになった室内をぐるっと見渡す。
私の職場はここ、木ノ下病院だ。病院では珍しい木造となっている。ナチュラルな雰囲気で、子供たちもお年寄りの方も怖がりにくいし、何より木の香りと目の保養でリラックスしてもらえる。
私と蒼くんはここの看護師で、立花さんが唯一の医師だ。改めて見つめ直してみると、いや、見つめ直さなくても人数は少ない。
田舎の中の、小中一貫の木ノ下学校の隣にある小さな病院だ。大袈裟に募集なんてしないから、集まったのは田舎好きのこの3人だけだ。それでも病室や受付場所はちゃんと広く、のびのびしてるし、掃除が少し大変なだけで、これといった不自由なこともない。
カラカラ、と扉の開く音がした。
「蒼くん、診察終わったよ。今は休憩させてる。」
「ありがとうございます。」
暗い表情、声ではない。無事なようで安心した。
「よく気づいたね。__腰の痛みなんて。まあ軽いギックリ腰で良かったけど」
「良かったというか…よくはないですよ。本人は相当痛かったらしいです。」
私の言葉に、日向さんは苦笑した。
私たち医療関係の間では、ギックリ腰ではなく、急性腰痛症と呼んでいる。重いものを持ったり、体を捻ったりして、筋肉や靭帯が損傷してしまった際に起こる炎症。年齢は特に関係ない。だが関係あるとすれば、普段筋肉があまり動くことがない、寝ている状態の多い人、というだろう。蒼くんの場合、昨日倉庫の方に道具や病室の方の家具も取りに行ってもらったから、そのせいだろう。…なんだか申し訳ない。
日向さんは仲間想いの人だ。きっと細かなことまで色々聞いて、重要な病気や怪我じゃないことを知って、それなりの手当をしてきたのだろう。
「それが、…患者さんや2人の健康状態を見るのが、唯一私のお手伝いできる取り柄なので」
私は、多分人より鋭い観察眼を持っている。表情筋から人の感情。癖から今抱えている不安、痛み、ストレス。歩き方や姿勢からは、庇っている足、腕、背中、腹の不調。それらは重い病気や怪我の第一歩だった時もある。
蒼くんはああ言っておきながら、1番自分が年下なのを理解してる。そのせいで、年上の私たちを頼ることを遠慮してしまっている。でも病院では遠慮したらダメだから、言葉にできない人たちの為に、私は居る。
「そっか。ありがとね」
日向さんは、少し…ほんの少し、寂しそうな顔をした。それを疑問に思う間もなく、パッと表情を切り替えた。
「でもまぁ年下だし、年上に頼れなくてもしょうがないか。隠しても、心湖ちゃんにはバレるけどもねー」
「日向さんだって、今も安心してること、バレてますよ」
(っあ、しまった__)
「先生。」と冗談で眼飛ばしてくる日向センセイと睨めっこしてたら、いつの間にか、ふはっと吹き出してしまった。無理なく笑えるこの関係が、私にとっては1番、大切なことだ。
「あっ、言うの忘れてた。今日は患者さん来なくて、リセットの日だから。いつものコトしよう」
「はい」
返事を返しながら、私の目線は無意識に、長い廊下に並ぶ病室に向かっていた。
リセット。いつものコト。ここではいわゆる木ノ下用語だ。私たちにしか通用しない。
リセットは、この病院の室内、寮内を完璧に綺麗にする、用具を元の場所にきっちり直す、私たちのコンディション、メンタルも安定させる、いわば整理のようなもの。「いつものコト」は、各々好きなことをする。子供たちがいる学校を見学したり、残ってカルテを見たり、外を自由に散歩したり。ある程度の時間を好きに過ごしたら、あとは明日以降に予定してある患者さんのことを話し合う。
この広い範囲での仕事も、この日があるから、3人でもやっていける。
(蒼くんの不調が、今日でよかった…)
「それじゃあ、掃除してまわった後、蒼くんの様子見てから、外行こうと思います。」
リセットの日は、必ず今日することを決めて、日向さんに報告する。
「了解。神社のとこね。私は学校行って、保健室の担当の先生と話してくる。」
「分かりました。それでは、また夕方に。」
「うん、夕方に。具合悪くなったらきてねー」
最後まで丁寧に見送られて、それに応えるように手を振り返してから、いつもの掃除場所に向かう。明るい長い廊下の先の、病室に向かう。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!