物忌《ものいみ》に当たってしまった守近は、出仕を休み、屋敷に籠っていた。
厄日の一つである為、身重の妻、徳子《なりこ》の身に、何かあってはならぬと、徳子の房《へや》で共に過ごしている。
とはいえ、何もしないのも、退屈で、徳子の好きな貝合わせを楽しんでいた。
「守近様?物忌の時に、遊興に励んでもよろしいのでしょうか?」
「おや、徳子姫。これは、遊興では有りませんぞ。歌の鍛練でございます。それに、物忌に貝合わせをしてはならないとは、誰も言っておりませんよ」
確かに、そうなのだが……。
そもそも物忌とは、暦上の凶日の事で、その日に当たってしまえば、全ての外出を控え、屋敷に籠って穢れを避けるための御祓《みそぎ》に入る。無論、出仕を休む事も認められていた。
遊興を控え、肉や匂いの強い食べ物を避け、火を使わないという決まりはあるが、貝合わせは出て来ない。と言って、奨励されているとも言えず。
物は考え様、というやつか。
貝合わせに使われる、雄と雌二対に別れる貝殻の裏には、歌も書かれてある。
貝殻通しがピタリと合うと、一句出来上がると言う訳なのだが、歌の鍛練と言えば、そうかもしれない。
徳子は、何となく胡散臭い守近の言い分に笑ってしまった。
少し後ろめたい気もするが、確かに、決まり通り過ごすのも、よけい気が滅入り何かに憑かれてしまいそうだった。
房《へや》には、女房達もいない。御簾の中、守近と二人きり。これくらいの息抜きなら、穢れも見逃してくれるだろう。
否、その考えは甘かった。
守近!と、連呼しながら、ドタドタと歩む足音は──、穢れどころか、もっと、厄介なヤツの物。
「あー徳子姫、今日は、本当に、物忌のようですねぇ」
「守近様、そう仰らずとも、竹馬《ちくば》の友ではありませぬか?」
「はあ、そうなのですよねぇ」
成人前の貴族の子息は、出歩くことなく、女房やら、大人達に囲まれ屋敷の内で暮らすもの。
友と、呼べる者は、ほとんどおらず、せいぜいあっても、乳兄弟位なものだが、それも、身分が邪魔をして、友、というより、共、に近い関係だった。
ある時、守近の屋敷で開かれた何かの宴に、たまたま、連れてこられていた斉時《なりとき》が、年頃の近い守近を気に入り、離れなかった。
父親通し、軽く面識があり、そうして、斉時が、嫡男でもない為、先々、家通しの対立など、厄介な事にはなり得まいと、本当に、ただの成り行きから、守近の遊び相手に選ばれた。
以来、竹馬の友として、繋がっているのだが……。
確かに、妙な派閥争いに巻き込まれる事もなく、気楽に付き合って行ける相手ではある。ただ、斉時という男、都で一二を争うお調子者だけあって、かなりのクセがある。
斉時が現れる所、騒動無しでは収まらないと言って良いほどなのだ。
そもそも、物忌の札まで示して、知らせているにも関わらず、どうして、屋敷へ立ち入るのだろう。
そう、お調子者というよりも、無神経極まりない男なのだ。
「ではでは、守近と徳子《なりこ》様の、今後の繁栄を祈って」
斉時《なりとき》は、ぐびりと、杯を開けた。
何故だか、守近と徳子は、自宅でありながら、斉時主宰の夕餉とやらに招待されている。
ただの言葉のあやなのだろうが、守近は、どうも調子がでない。それは、徳子も同じなのか、呆《ほう》けたような顔付きで、斉時の事を見ていた。
いや、これは呆《あき》れているに違いない。徳子にも、斉時という男の事が、ようよう分かってきたのだろう。
そうして、三人の周りを囲むように、徳子付きの女房達が陣取っている。
そもそも、夫同席とはいえ、女《おなご》の房《へや》で、夕餉を摂るとは、なんたることか。しかも、物忌《ものいみ》の最中にもかかわらず。
徳子の身に何かあってはいけないと、女房達は、見張り役として、詰めているのだ。
そんな皆の思惑など何のその。
斉時は、一人ご機嫌で、前に並べられている酒と料理に、舌鼓を打っていた。
斉時は、物忌に当たっていない。食事や行動に禁忌は無いのだ。
一方の守近達は、物忌中。水で戻した乾飯《ほしいい》に、青菜の塩漬け、と、仕来たり通り調理に火を使わない品を食くしている。
「斉時よ、お前の行き先は、天一神《てんいちじん》の、遊行に当たるそうじゃないか」
一人、豪遊するかの斉時に、たまりかねた守近が問いただす。
「あー、家令《しつじ》の爺さんか」
忌々しそうに言いながら、斉時は杯を再び開けた。
「では、斉時様、方違《かたちが》えをなされませんと……」
「徳子姫、その、方違えの為に、我が屋敷にこの男は、来ておるのですよ」
「守近様?当家は、物忌中ですよ?それを、方違えとは……」
目的地の方角に、方位神がいる場合、別の方角で一夜を明かし、翌日、そこから目的地へ向かい、祟りを避ける事を方違えと言う。
吉となる方角にある他家に一泊するのが慣わしなのだが、斉時は、凶、が出ている守近の屋敷に泊まるつもりでいるらしく、方違えを理解しているのか、そもそも、本当に方違えに来ているのか疑わしい。
「そうそう。なんと!守近が屋敷の裏口が、天一神を避ける最適な方角だと言われましてな。裏口とは、おかしな話よと思いつつも、立ち寄ってみると、正門には、物忌の札が貼ってある。成る程、それで、裏口かと。そういう訳なのです」
と、斉時は、ペラペラともっともらしい事を述べてくれる。
「まあ!当家の裏口が吉と!ならば、裏口で一晩明かされるのがよろしいのでは?」
徳子の何気ない言葉に、守近と女房達は、含み笑った。
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