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「マ、マーサ?」
領主達の乗った馬車が街の方角へと走り去って行くのを、茫然と見送った後、最初に声を発したのはベルだった。
名前を呼ばれたマーサ本人は、ニコニコとご機嫌な表情で手際よく荷物を館の中へと運び入れている。
「え、どうして?」
「私はこちらでお仕えする身ですから、当然でございます」
そそくさと慣れた風に奥へと入って行き、以前使っていたことのある一階の使用人部屋の扉に手を掛けようとする。
「あっ、ま、待って!」
ベルが慌てた声で止めようとする。葉月も気付き、あれ? と首を傾げた。マーサが今入ろうとしている、その部屋は……。
「まっ、どういうことでしょうか、これは?!」
葉月曰く、この館のパンドラの箱。ベルが私室としている部屋だ。葉月のお掃除の手が一切入ったことのない、ゴミ屋敷状態を唯一まだ保ち続けている場所だ。
「アナベルお嬢様っ!! 何でしょうか、これは?! 汚いっ、いえ、まずそれより、どうしてお嬢様が使用人部屋をお使いになってるんですかっ?!」
目の前に露見された衝撃的な光景。マーサは顔を真っ赤にしながらベルへと詰め寄る。
久しぶりに戻って来られた館が以前とはそれほど変わらない様子に安心しつつ、お嬢様もちゃんと生活できるんだなと感心していたところだったのに……。
「ほ、ほら、ここが一番使い勝手が良かったから……」
「違いますでしょ。ただ単に、二階へ上がるのが面倒だったからでしょうに!」
完全に、見抜かれている。
「ハァ、分かりました。館のことは、葉月様がやってくださったのですね……」
「ええ……そうね」
「まあ、なんてこと!」
お客様に何をしていただいてるんですか! 声高にまくし立てつつも、その手は常に忙しなく動いている。怒りながらでも片付ける手際とスピードはまさにプロ。小言を続けながらも、ベルの私物を二階の一番奥の部屋へと移動させていく。
マーサ曰く、館の主は入口から一番遠い部屋を私室とするべきということだ。つまり、ベルが一番面倒だと感じて遠ざかっていた部屋だ。
マーサがバタバタと二階を行き来し始めたので、葉月は自室として使っている部屋をそっと確認する。壁際に設置されたベッドの上には、一匹で丸まって眠る愛猫の姿があった。
――やっぱり隠れてたか、くーちゃん……。
人見知り全開の猫は、今も眠っているようには見える。が、耳だけはピンと張って周囲の音を警戒していた。
――お腹が空いたら、降りてくるかな?
猫が出入り出来る程度の隙間を開けたまま、静かに一階へと戻る。階下ではげんなり顔のベルが、溜め息をつきながら薬草茶を飲んでいた。
「くーちゃんは、どうしてるの?」
「人見知りして、閉じ籠ってますね」
「あら。大変だわ」
微かに聞こえる二階の物音に、二人は顔を見合わせて苦笑する。
「館のことはマーサに任せて、これからはのんびりするといいわ。あれでも有能な世話係なのよ」
かなり口煩いけどね、と付け足して、ふふふと微笑んでみせる。
手早くベルの私室を整えて降りて来たマーサは、馬車で運んで来た荷物の一部を抱えて調理場へと向かう。夕食の支度に取り掛かるつもりのようだ。住み込みの準備は万全で、抜かりは無い。
「あ、くーちゃんのご飯……マーサさんには、何て説明したら?」
「そうねぇ……」
人差し指を顎に当てて、ベルが考える素振りを見せる。
また住み込みで働くというのなら、伝えない訳にはいかない。聖獣という存在のことを、はたしてマーサは知っているのだろうか。この世界でも知識として聞いたことがある者は少なくないはずだが、実際に見たことがある人はおそらく森の魔女だけ。
「みゃーん」
隙を見て静かに降りて来た猫が、ご飯という単語に反応してか、甘えるように葉月の脚へ擦り寄ってくる。マーサはまだ調理場で支度中だ。
「起きてきたの? お腹空いた?」
「みゃーん」
八割れ猫を抱き上げて膝へ乗せ、その毛並みに沿って撫でてあげると、ゴロゴロと喉を鳴らして葉月の顔に擦り寄ってくる。それでも耳はピンと張ったままなので、調理場にいる使用人の存在が随分と気になるようだった。
「降りて来れたなら、くーの方は大丈夫そうですね」
「それなら良かったわ。あとはマーサ次第ね。驚いて騒がないといいんだけど……」
「そう言えば、アナベルを略してベルなんですね」
「略さずに呼ぶのなんてマーサくらいよ」
猫を囲みながら他愛ない会話をしていると、調理場の扉が開く気配。同時に、食欲をそそる香りがホール中に漂い始める。
「お待たせいたしましたわ。ご夕食になさいましょう」
ガラガラとワゴンに乗せて、マーサが作りたての料理を運んでくる。サラダとスープ、パンに、メインは白身魚のムニエルのようだ。品数こそ多くは無かったが、色とりどりの野菜が使われていて、栄養バランスも良さそうだ。
ここに来て初めての魚料理に、葉月は喉が鳴りそうになる。
「美味しそう……」
「みゃーん」
思わず言葉が漏れ、そしてそれに返事した猫にハッとする。葉月の膝の上で立ち上がって、くーはテーブルに置かれていく料理の匂いをくんくんと嗅いでいた。
「な、なんでしょうかっ、その獣は?!」
客人の膝に陣取る白黒の毛玉に、ベテランの世話係の目が丸くなっている。
「あ、えっと……」
「猫よ、マーサ。葉月と一緒に遠い国から来たのよ」
言葉に詰まる葉月に代わって、ベルがさも何も問題は無いわと言いたげに、平然と説明する。
「とてもおとなしい子だから、平気よ。この子のご飯も用意してあげてくれる?」
「猫、ですか……葉月様のお国の獣なのですか? 初めて拝見しましたわ」
猫と言われても特にピンとは来ないらしい。どうやらマーサは聖獣についての知識は持ち合わせていないようだ。騒がれることもなく受け入れられ、二人はホッと胸を撫で下ろした。