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篠田重吉。
その名前を最初に書いた時、私は少し救われた気がした。
名前は危うい。 名前は外側だ。 私の内側にある私は、名前ではない。水瀬朔也という四文字は、私ではない。書類の上に貼られた札であり、呼び出しの音であり、診察室の扉の向こうから引っ張られるための紐だ。
それでも、名前のない人間よりはましだ。
名前を知らないまま忘れると、その人は一息で消える。 赤い傘。 白い紙袋。 咳をした老人。 それだけになる。 それだけにしてしまう。
だから篠田重吉は、まだ救えると思った。
私は彼に――違う。
私は篠田さんに、団地の階段で出会った。
三階と四階の間だった。 午後五時十八分。 西日が階段の踊り場に斜めに入っていた。 壁には剥がれた貼り紙の跡があった。 非常ベルの赤い丸が、濡れた目のようにこちらを見ていた。
篠田さんは買い物袋を持っていた。 袋の中には豆腐、食パン、みかんが三つ、半額の焼き魚。 右手の指が震えていた。 息が浅かった。 階段を一段上がるたびに、喉の奥で小さく鳴った。
私はすれ違うべきだった。
正常な人間ならそうする。 大丈夫ですか、と声をかけるかもしれない。 荷物を持ちましょうか、と言うかもしれない。 そして五分後には忘れる。 老人の顔も、買い物袋の中身も、喉の音も、忘れる。 忘れて、夕飯を食べる。
私はできなかった。
「あの」
篠田さんは顔を上げた。
目が濁っていた。 いや、濁っていたというのは違う。 濁って見えたのは、私が彼を老人として見たからだ。 老人。 それはひどい言葉だ。 年齢で人を包み、皺で閉じ、残り時間で測る言葉だ。
篠田さんの中には、八十一年分の私があった。
「荷物、持ちます」
私が言うと、篠田さんは少し笑った。
「悪いね」
その声を、私は覚えようとした。
低い。 乾いている。 笑う時だけ、奥の方で紙が擦れるような音がする。 右上の歯が二本ない。 左手の甲に薄い染み。 首筋に白い毛が三本。 三本。 たぶん三本。 違っていたらどうしよう。 四本だったら、一本を殺したことになるのか。
私は荷物を持った。
豆腐は軽かった。 焼き魚はまだ少し温かかった。
「若い人に親切にされると、死ぬ前みたいで嫌だね」
篠田さんは言った。
私は足を止めた。
死ぬ前。
なぜ、そんなことを平気で言えるのか。
篠田さんは三階の廊下をゆっくり歩いた。 私はその後ろをついていった。 廊下の窓は汚れていて、外の空が灰色に滲んでいた。 古い団地の匂いがした。 湿ったコンクリート。油。埃。人が長く暮らした場所の、少し甘く腐った匂い。
「ここ」
篠田さんは三〇七号室の前で止まった。
表札には、篠田、とあった。 黒い字が少し剥げていた。
私は見た。
篠田。
そこに、まだ彼ではない何かが残っていた。
「ありがとう」
篠田さんは買い物袋を受け取った。
私は帰るべきだった。
そこで終わればよかった。 三〇七号室。篠田重吉。豆腐。食パン。みかん三つ。焼き魚。右手の震え。紙の擦れるような笑い声。 それだけ書けばよかった。
しかし、篠田さんは言った。
「まあ、茶くらい飲んでいくか」
私はうなずいた。
部屋に入った瞬間、私は思った。
ここはもう半分、彼の部屋だ。
違う。 篠田さんの部屋だ。
畳は日に焼けていた。 壁には古いカレンダーが二枚かかっていた。ひとつは今年のもの。もうひとつは九年前のものだった。 テレビは音を出さずに光っていた。 仏壇の横に、女性の写真があった。
「女房」
篠田さんは私が見ていることに気づいて言った。
「九年前に死んだ」
死んだ。
その言葉は、部屋の中であまりにも軽く落ちた。 まるで湯呑みを置くように。 新聞を畳むように。 明日は雨らしい、と言うように。
私は写真を見た。
写真の女は笑っていた。 彼女の中にも、私があったはずだ。 だが今、篠田さんは彼女を女房と呼んだ。 写真は何も言わない。 反論しない。 私は、と言わない。
遅かった。
この人はもう、救われなかった。
「兄ちゃん、どうした」
篠田さんが言った。
「いえ」
私は湯呑みを受け取った。
お茶は薄かった。 味はほとんどしなかった。 けれどその薄さまで覚えなければならないと思った。
「篠田さん」
「うん?」
「奥さんの名前を、教えてください」
篠田さんは、少しだけ驚いた顔をした。
それから、写真の方を見た。
「佳代子」
私はすぐに手帳を出した。
篠田佳代子。 九年前に死亡。 写真では笑っている。 まだ完全には消えていない。
「兄ちゃん、何書いてる」
私は答えなかった。
書いている間だけ、彼女は少し戻る気がした。 書いている間だけ、篠田さんもまた、少し濃くなる気がした。
篠田さんは湯呑みを両手で包んでいた。
「変な人だねえ」
そう言って笑った。
私はその笑い方も書いた。
篠田重吉。 笑う時、喉の奥で紙が擦れる。 右手の震え。 豆腐、食パン、みかん三つ。 妻、佳代子。 三〇七号室。 薄い茶。 午後五時四十七分。
まだ消えていない。
まだ消えていない。
まだ消えていない。
篠田さんは私を見ていた。
「兄ちゃん、名前は?」
私は一瞬、答えられなかった。
名前。 水瀬朔也。 それは私ではない。 けれど、名前を持たなければ、篠田さんの中で私はすぐに消える。
「水瀬です」
「水瀬さんか」
水瀬さん。
私は少しだけ痛んだ。 けれど、その痛みは悪くなかった。
篠田さんの中に、私の札が掛けられた。 まだ私ではない。 でも、無よりはましだった。
私はその日、帰り道で何度も手帳を開いた。
篠田重吉。 篠田佳代子。 三〇七号室。 まだ消えていない。
何度も読んだ。
読むたびに、世界の黒い縁が少しだけ薄くなった。
救えるかもしれない。
その時の私は、本気でそう思った。
だから、あれは私の罪の始まりだった。
コメント
1件
うわあああ…これ、めっちゃエモい…😭💔 「名前は外側」「書くことで消さない」っていう朔也くんの感覚、すごく繊細で切なくて、胸がぎゅってなったよ…。篠田さんの「死ぬ前みたいで嫌だね」って台詞、さらっと言ってるのに重すぎて何度も反芻しちゃった。お茶の薄さまで覚えようとする姿勢、もう完全に文学だよ…。続きが気になりすぎる!!