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あれは半年前の事だった。
寒い冬の朝、駅を出た井上は会社へ向かって歩いていた。
普段はもう少し遅く出勤していたが、この日は朝一番で重要な会議があるので早く来た。
まだ半分寝たままぼーっとしながら歩いていた井上は、交差点の信号が赤になったので足を止めた。
そして目の前を行き交う車をぼんやり眺めていると、横断歩道の向こう側でうずくまっている女性を見つけた。
歳の頃は80前後の高齢の女性だ。
女性は地面に膝をつき、花壇の植え込みに突っ伏すように倒れ込んでいた。
相当具合が悪そうだ。
気になった井上は、信号が変わるまでの間その女性を見つめる。
そして信号が変わると足早に横断歩道を渡り始めた。
その時、井上の前にいた三人の女性達の会話が聞こえてきた。
「ねぇねぇ、あのおばあさん、具合悪いのかな?」
「突っ伏したまま動かないよね。マジでヤバいやつ?」
「救急車呼べばいいのに」
「自分で呼べないんじゃない?」
「えーっ? だったら声かけてみる?」
「でもそんな事したら絶対遅刻だよぉ」
「それは困る~。救急車が来るまでついていてあげられないしねー」
「そうそう、遅刻したら大変!」
「きっと誰か気付くんじゃない? 時間がある人にお願いしようよ」
「そうだねー。それにしても私達って本当に鬼畜~」
「「キャハハハッ!」」
女性達は笑いながら女性の前を通り過ぎて行った。
「……ったくひえでぇな」
井上はポツリと呟くと、真っ直ぐに女性の元へ向かう。
その時、一人の女性が目の前を駆け抜けて女性の傍まで行った。
「どうしましたか? 大丈夫ですか?」
女性に声をかけているのは恵子だった。
恵子は女性を抱えるようにして助け起こすと、女性を傍のベンチへ横たわらせる。
そして再び話しかけると、女性がかすかに頷いた。
恵子はすぐに携帯を取り出し電話をかけた。救急車を呼ぶようだ。
「もしもし、あ、救急です。道路で高齢の女性が倒れていて胸が苦しいと言っています……あ、はい、住所は……」
恵子は近くの電柱に書いてある住所を告げた。
そして電話を切ると女性の背中をさすりながら「もう大丈夫ですよ~、今救急車が来ますからね~」と優しく声をかける。
そこへたまたま自転車に乗った警察官が通りかかり、恵子に声をかける。
(おまわりさんが来たならもう大丈夫かな?)
会議の時間が迫っていたので、井上はそのまま会社へ向かった。
歩きながら、井上の脳裏には今見た光景が何度も浮かんできた。
あの時恵子は何のためらいもなく女性に駆け寄った。井上が行くよりも早くだ。
(すげーな……)
井上は穏やかな笑みを浮かべながらそう思った。
エレベーターが39階へ着くと、井上は技術部のフロアへ行き自分の席に座った。
するとすぐに同僚が来たので、少し世間話と打ち合わせをする。
それが終わると会議まではまだ15分ほどあったので、井上は席を立ちもう一度一階へ向かう。
なぜか恵子の事が気になって、いてもたってもいられなくなったのだ。
エレベーターを降りて出口へ向かおうとした時、ちょうど恵子が入って来た。
恵子は小走りでエレベーターへ向かう。
その時、恵子の同僚と思われる男性が恵子に気付き声をかける。
「あれ? 中森さんが遅刻なんて珍しいなー」
「へへっ! ちょっと寝坊しちゃいましたっ」
恵子は笑いながら答えると、同僚にペコリとお辞儀をしてからエレベーターに乗った。
***
あの日以来、井上は恵子の事が気になって仕方がなかった。
社内やコンビニで恵子を見かける度に、つい目で追ってしまう。
恵子が役員秘書をしているという事は、その後知った。
恵子はCOOの川田公平から頼まれた書類を、技術部まで届けに来る事がよくあった。
その際恵子は必ずといっていいほど、仲良しの女子社員のデスクへ立ち寄ってお喋りをする。そのデスクは井上の席からも近かった。
二人の会話を聞いていると、恵子に関する様々な事がわかった。
恵子は井上よりも四歳年上だという事、趣味がゴルフだという事、最近10歳年上の恋人と別れた事等、色々知る事が出来た。
恋人と別れたばかりだとは思えないほど、恵子はいつも明るくニコニコと元気そうだ。
井上はそんな恵子を見る度に、どんどん思いを募らせていった。
そんな時、秘書室でのあの出来事が起こった。恵子のパソコンにエラーが出たのを井上が直しに行った件だ。
あれをきっかけにあれよあれよという間に、井上は恵子にゴルフの指導を受ける事になる。
もちろん井上はそのチャンスを逃すつもりはなかった。
だから今日こうして恵子を食事に誘ったのだ。
その時、井上の言葉に驚いた恵子が口を開く。
「え? 私がおばあさんを助けた?」
「半年前、会社の前の交差点で救急車を呼びましたよね?」
「あぁ、あの時ね。でも私は何もしていないわよ」
「してたじゃないですか! すぐに駆け寄って救急車を呼びましたよね?」
「あ、うん、でも救急車を呼んだだけよ。大した事はしてないわ」
「そんな事ありません。皆が素通りする中、あなた真っ先に助けに行ったんですから」
「フフッ、気付いたらきっと誰でもそうするわ」
「いえ、恵子さんのように咄嗟に動ける人はなかなかいませんよ。それにあなたは会社で落ち込んでいる人や元気のない人を見つけると、いつも声をかけてますよね?」
井上の言った事は事実だった。
元気のない人を見ると、恵子は声をかけずにはいられない。
「声をかけるくらいなら、誰でも出来るわ」
「そんな事ありません、なかなか出来る事じゃないです。だから俺はあなたの事が好きになったんです。あなたのその純粋な優しさに惚れたんです。俺は絶対に浮気はしません! 必ずあなたの事を大切にします! だからどうか俺と付き合って下さい!」
井上はガタンと音を立てて椅子から立ち上がると、深く頭を下げて真っ直ぐに右手を差し出す。
その瞬間、店内の客達が一斉に二人の方を振り向く。そして息をひそめながら恵子の返事を待っていた。
突然注目を浴びてしまった恵子は、顔を真っ赤にして言った。
「ね、ねぇ井上君、みんなが見ているから座って、お願い……」
「YESって言ってくれるまで座りませんっ!」
井上は同じ姿勢のまま言った。
恵子は心臓がドキドキして今にも破裂しそうだった。
こんなドラマティックな告白は、今まで一度も経験した事がなかった。
『年下なんて論外!』
ずっとそう思って生きてきた。
だから今まで付き合った男性は全員年上だ。中には一回り以上離れた人とも付き合った事がある。
しかし誰一人恵子を甘やかしてくれる人はいなかったし、幸せにもしてくれなかった。
そこで恵子は淋しそうに微笑んでからフーッと息を吐くと、井上に向かって言った。
「本当に私でいいの?」
「もちろんっす。恵子さんがいいんです」
「私、結構性格きついわよ」
「そんなの全然問題ないっす」
「それに私ね、今度彼氏が出来たら思いっきり我儘を言って甘えようって決めてるの」
「大丈夫っす! 任して下さい!」
「それに浮気されたら発狂するかも」
「俺、浮気なんて絶対しませんから! 結構一途なんで……」
その言葉に思わず恵子がフフッと笑った。
「わかったわ。返事はYESよ。井上君、これからよろしくね」
恵子は立ち上がると井上の右手を掴む。
その瞬間、レストラン内に大きな拍手が響き渡った。
周りにいた客達は、二人を祝福するように大きな拍手をしている。
井上は嬉しさのあまり、顔をクシャクシャにしながら周りの人達に向かって言った。
「どうも、お騒がせしてすみませんでしたっ」
井上の言葉に、男性陣から声が飛んできた。
「おめでとうっ!」
「良かったなー」
恵子は恥ずかしそうに頭をかく井上を見ながら、今までに感じた事がないような幸福感に包まれていた。
コメント
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内面も外見も素敵な2人🩷 告白もストレートでかっこええわぁ😍💗 お幸せに🫶
イケメンの井上クン、ずっと恵子さんの事目👀で追ってたんだね~😍 男性の一途って良いね🩷 井上クンの告白、恵子さんLOVE🩷がめちゃくちゃ伝わってきた🤭
自然に優しくできる恵子さん 井上くんにたくさん甘えて癒されて下さいね レストランでの告白場面 居合わせた人皆さん優しい拍手で2人を祝ってましたね私も拍手送りたいです👏👏👏