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思わず興奮して駆け寄り、声を上げた俺に
「ほんと、さすが水族館の人気ナンバーワンだ」
隣の仁さんが優しく笑いかけてくれた。
彼の視線の先には、悠々と水中を舞うペンギンたちがいた。
本当に、まるで青い空をばたいているように見えて、思わず顔がほころんだ。
「楓くん、こっちのクラゲもすごいよ。ライトの色で見え方が全然違う」
仁さんの声に誘われて、俺はクラゲの水槽の前で足を止めた。
ゆらゆらと漂うクラゲたちが、七色のライトに照らされて表情を変える。
その幻想的な美しさに目を奪われながら、ふと仁さんの横顔に目をやった。
なんでだろう。
なんか
こういう時の仁さんってすごく”優しい大人”って感じする。
「仁さんって、意外と詳しいですよね。なんか……図鑑に載ってそうなこと言うし」
「……そう?」
「はいっ、なんか、頼りになるって感じです!」
さらっと言ったつもりだったのに、仁さんがピクリと肩を動かしたのが見えた。
よく見ると、笑ってはいるものの、その顔はほんのり赤い気がする。
(え……?)
なんか、変なこと言っちゃったかな。
でも、“頼りになる”って本当にそう思ったことだし。
しかし、それ以上は聞けなくて、自然と目をそらして近くの魚の水槽に視線を移した。
するとさんは、俺の様子に気づいたのか
何事もなかったかのように「これはナンヨウハギって言うんだよ」と、また図鑑に載っていそうな知識を再度披露してくれた。
そのままアシカショーの時間になり、俺たちは前の席に座った。
ショーが始まると、アシカたちのコミカルな動きに会場からは大きな笑いと拍手が沸き起こった。
そしてクライマックス。
アシカが勢いよく飛び込み、その拍子に大量の水しぶきがこちらに飛んできた。
「ぷっ……ははは、俺たち濡れすぎ」
全身に水しぶきを浴びて、俺たちは思わず顔を見合わせて笑い転げた。
びしょ濡れになった互いの顔を見て、また吹き出す。
仁さんの髪からは水滴が滴り落ち、顔も服もぐっしょりだ。
「仁さん、顔びしょびしょじゃないですか……!ははっ、ちょっとこっち向いてください」
屈託なく笑いながら、俺はポケットからハンカチを取り出した。
仁さんの頬にそっと手を添え、水滴を拭ってあげようとした
その時────…つるっ
座席が少し濡れていたのを忘れていて、手が滑った。
そのまま仁さんに体重をかけるような形になってしまった。
「楓くん、あの………っ」
仁さんの焦った声が聞こえ、瞬時に状況を理解した。
「す、すみません!すぐ退けます……!」
暫し固まってから、慌てて上体を起こす。
仁さんもすごく焦った顔をしていた。
「こ、ここ滑りやすいですよね…っ、押し倒しちゃってすみません……!!」
慌てて距離を取って謝ったけれど、仁さんは
「いや、こっちこそ………」
と、なんだか歯切れの悪い返事をしていた。
声が上ずってる気がしたのは気のせいだろうか。
…..やっぱり濡れた席は危険だ。
気まずい沈黙が流れる中
仁さんがいつもの調子に戻そうとしてくれた。
「…次、どこ行こうか?」
仁さんがそう聞いてきたちょうどその時
目の前の案内板に『チンアナゴの水槽→』の文字が見えた。
「あっ、チンアナゴ」
俺は即答した。
仁さんは少し目を見開いてからフッと口角を上げた。
「いいね。あいつら、地味に人気なんだよな」
「え、仁さん、チンアナゴ好きなんですか?」
仁さんは少しだけ視線を逸らして
「……まあ、かわいいじゃん。あの、砂からぬるっと出てる感じ」と答えた。
その「ぬるっと」という擬音に思わず吹き出しながら、俺はチンアナゴの水槽の前へ駆け寄った。
水槽の中には、細長い生き物が砂からひょっこりと顔を出していて
ユラユラと身体を揺らしている。
なんだか、リズムに合わせて踊っているみたいだ。
「うわ……見てください、あの黒い子だけ向きが違う!」
俺の声に、仁さんがまたもや解説を加えてくれた。
「たぶんあれ、縄張り争いで牽制してるんだ。敵と見なしたら、ぐいっと体伸ばして威嚇すんだよ」
「えっ、仁さんやけに詳しいですね…チンアナゴ好きなんですか?」
「いや、前に来たときの解説パネルで読んだだけ」
「えー、よく覚えてますね」
「たまたまだよ」
仁さんの横顔がほんのり赤くなってるように見えたのは───
気の所為、だろうか。
◆◇◆◇
チンアナゴたちに癒された後
俺たちはクラゲの展示コーナーへと移動した。
照明が落とされたフロアに足を踏み入れた瞬間
二人揃って自然と声をひそめていた。
ひっそりとした空間に、水槽の光だけがぼんやりと輝いている。
水槽の中をふわり、ふわりと漂うクラゲたち。
白や青、ピンクにライトアップされて
まるで時間の流れさえ違う、別世界にいるみたいだった。
「…すごい……っ」
俺はただ、その美しさに息を飲んだ。
隣でさんが「静かだな」と、低く落ち着いたトーンで呟く。
「はい……なんか、クラゲって、感情なさそうなのに…見てると、癒されますよね」
「俺もなんか、こいつら見てると、頭ん中が静かになる」
ふとした沈黙のあと、仁さんの声が響いて
俺は横目で彼の横顔を見つめた。
ライトのせいで、仁さんの目が少し青っぽく見え
る。
ぼんやりと揺れる水槽の光に照らされて、どこか遠くを見ているような横顔だった。
「仁さんって……ときどき、すっごく遠いとこ見てる顔しますよね」
そう言うと、仁さんは驚いたように俺を見た。
「え?」
「今みたいに。なんか、昔のこととか、考えてそう
な顔」
仁さんは「…それは、初めて言われたかも」と呟き、それから少しだけ目を伏せた。
数時間水族館を満喫したあとに外に出て、帰りの電車に乗った。
夕方前の時間帯で、電車内は程よく空いていた。
部活帰りの高校生たちや、どこかへ向かうカップルたちが、ちらほら乗っている。
俺たちは並んで座っていて、今日だけで何度目になるかわからないくらい
自然と肩が触れ合っていた。
仁さんは、なんにも言わない。
でも、その沈黙が心地よくて、俺もなんとなくスマホを出すことなく窓の外を眺めていた。
夕焼けに染まり始めた空の色が、少しずつ移り変わっていく。
───ふと、視線を感じた。
ゆっくり横を見ると、仁さんがこっちを見ていた。
少し伏し目がちで、でも、どこか優しい目。
その視線に、胸が微かに波打つ。
「……じ、仁さん?」
名前を呼んだら、少しだけ肩を揺らした仁さんが、ばつが悪そうに笑った。
「ん……あ、ごめん」
「えっと、何かありました?」
「…いや、ただなんか……今日の楓くん、すごく楽しそうだったなって」
「そりゃもちろん楽しかったですよ!ラーメンも美味かったですし…」
即答すると、仁さんがほんの少し、目を細めた。
その表情が、なんだか見てはいけないものを見たような、秘密めいた笑顔に見えた。
「ふっ……そっか、それならよかった」
その笑顔に、胸の奥が、ほんの少しだけ、きゅっとなった。
「…仁さんも、楽しかったですか?」
仁さんは驚いたように目を見開いて
それから少しだけ照れたように、ゆっくりと頷いた。
「うん。……すごく」
「なら、よかったです!」
窓の外、夕焼けがじんわりと広がり、オレンジ色の光が電車の中を照らしていた。
俺たち二人の肩の隙間にも、その光がそっと差し込んでいた。
電車は心地よい揺れを続け、やがて最寄りの駅に到着した。
改札を抜け、慣れ親しんだ道を並んで歩く。
駅前の賑やかさも、この時間になると少し落ち着きを取り戻し
街灯が道を柔らかく照らしていた。
今日の出来事を振り返るように、言葉少なに行き交う。
肩が触れ合うたびに、心臓が小さく跳ねるのがわかった。
アパートの前に着くと、いつものように仁さんがお互い鍵を取り出した。
「今日は、ありがとうございました。すごく楽しかったです」
俺は、家に入る前に素直な気持ちを伝えた。
本当に、心から楽しい一日だった。
仁さんは、俺の言葉にフッと微笑んだ。
「俺も久々に楽しかったよ」
その笑顔が、今日見たどの景色よりも、心に焼き付くような気がした。
「…また、行こうな」
その言葉に、俺の胸は温かいもので満たされた。
また、仁さんと二人で出かけられる。
その事実が、どうしてかたまらなく嬉しかった。
「はい!あと、今度は巴くんの様子も見に行きま
しょ」
弾んだ声で答えると、仁さんは少しだけ目を細めて
「うん、来週の土日ならいつでも空いてるから」
と短く答え
自分の部屋のドアを開けた。
「おやすみ、楓くん」
「おやすみなさい、仁さん」
仁さんが部屋の中に入っていくのを見届けるように彼の背中が見えなくなるまで、じっとそのドアを見つめてしまった。
自分もガチャリ、と自分の部屋の鍵を開ける。
冷たいドアノブの感触が、ふと現実に戻る。
部屋に入ると、さっきまでの賑やかさが嘘のように静まり返っていた。
でも、心の中は、今日の楽しかった思い出と
仁さんの優しい笑顔で満たされていた。
ベッドに倒れ込み、天井を見上げる。
仁さんの「また、行こうな」という言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
今日感じたこの温かい気持ちは一体なんなのだろう。
楽しくて刺激を感じたからなのか
高揚感がある。
まだ、その答えはわからないけれど
この心地よい感情に、そっと身を委ねてみた。