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最近、自分の体がおかしい
風邪気味というか、なんというか熱い
まあ、すぐに直るだろうとそこまで気にしてもいなかった。
しかし、そんなある日───
9月10日
今日だって、いつも通りの朝だった。
自営業の花屋は好きだし、仕事は順調。
ここ数年は発情期なんてとんとご無沙汰で、すっかり油断していた。
いや、むしろそれが普通になってしまっていたん
だ。
もう自分の体には、そんな本能なんて欠落してしまったんだとさえ思っていたのに。
けれど、玄関のドアノブに手をかけたその瞬間、胸の奥からじわっと熱が広がった。
まるで泥に沈むように、下腹部にまとわりつく重たく湿った疼きと
肌の内側からじんじんと沸き立つ熱。
一瞬で視界がにじみ、足元がぐらついた。
全身の力が抜け落ちていくような感覚だ。
「う…うそ……っ」
声が震える。
すぐに発情期が来たんだと悟った。
こんな唐突に、何の前触れもなく熱が喉の奥をせり上がってきて、呼吸が浅くなる。
どうにか玄関を開けたけれど、一歩外に出た瞬間
世界がぐにゃりと歪んだ。
頭がぼんやりして、膝に力が入らない。
「っ、はあ……っ、は、あ…………っ」
どうしよう。
今は薬も持っていない。
このままでは仕事にも行けない。
いや、それよりも、この、匂い。
自分の体から発しているだろう甘ったるい匂いが、やけに鼻について気持ち悪い。
こんなの、誰かに嗅がれたらどうなる。
でも、薬は買いに行かないと行けない
だからってこんな状態で買いに行って、誘惑してると勘違いされて犯されるのも目に見える。
思考がまとまらないまま、ただ焦燥感だけが募っていく。
「楓、くん…?」
聞き慣れた低い声がして、ハッと顔を上げた。
隣室の、仁さんだ。
よりによって、こんなときに
いつものように穏やかな眼差しでこちらを見ているのに
その視線が俺の奥底まで覗き込むようで、胸がぎゅっと痛くなった。
こんな姿、絶対に見られたくなかった。
「この匂い、楓くんからか…」
仁さんの眉がわずかに寄る。
優しげな声なのに、なんだかひどく恥ずかしくて
情けなくて、目を逸らしたくなった。
「わ、わかんなくて……突然……発情期、が…っ、はあ、はっ……」
声にならない吐息がもれる。
もう、立つ力すらない
膝が崩れて、その場に座り込んでしまった。
仁さんの表情が変わるのが見えた。
でも、どんな顔をされても怖い。
こんな自分を見られるなんて。
嫌だ、でも、助けてほしい。
なのに、近づかれたくない
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
こういうとき、Ωは100%、鉢合わせたαに強姦される。
仁さんはそんなことしないだろうけど
俺のフェロモンに当てられて…って可能性もある。
パニックで思考がぐちゃぐちゃに絡まって、どうすればいいのか全くわからない。
仁さんが一歩、こちらに足を踏み出した瞬間
「………っ、……!」
反射的に体が跳ねた。
震える肩、喉がつまる。
そんな俺を見てなのか、仁さんはそこで足を止めた。
そして、一瞬何かを飲み込むように目を伏せてから、静かにジャケットを脱いだ。
「……これ、着てて。」
ふわり、と肩に刃織らされたジャケット。
仁さんの匂いがした。
落ち着いたウッディ系の香水と、煙草の残り香
そして少しだけ汗の匂い。
それが、今の自分にとっては妙に落ち着く要素になった。
自分の発する甘ったるい匂いを、わずかに遮ってくれる。
「とりあえず……薬、俺が買ってくるから。それ持って部屋で待ってて」
仁さんの声は優しくて、でも、どこか強くて、泣きそうになった。
こんなに弱っているのに、仁さんはちゃんと
「怖がってる」って気づいてくれて、無理に触れようとしなかった。
その配慮が、弱り切った心にじんわりと染み渡る。
「……っ、ありがと、ございます…」
絞り出すように声を漏らすと
仁さんは「すぐ戻ってくるから」と言って
ふわっと頭を撫でるような仕草だけ残して立ち上がった。
まるで、壊れ物に触れるような、それでいて確かな優しさだった。
その背中を、ジャケットの中で震えながら見送った。
一刻も早く、この地獄のような状況から抜け出したい。
仁さんが戻ってくるのを、ただひたすらに待つしかなかった。
何分、何十分経ったのかも分からない
体中が熱くて、意識が朦朧とする中で、ただ仁さんの戻りを待つしかなかった。
玄関のドアが開く音と、仁さんの優しい声が聞こえた時、安堵で全身の力が抜けるようだった。
「楓くん、薬買ってきたよ。飲める?」
差し出されたのは、水と小さな錠剤。
震える手でそれを受け取り、なんとか口に運んだ。
ごくりと喉を通るたびに、体の中にじんわりと冷たい感覚が広がっていく。
しばらくすると、あのじっとりとした熱が、少しずつ引いていくのが分かった。
視界の歪みも収まり、呼吸も楽になっていく。
「はあ……はあ、ほん、とに…あり…がと、ございます……っ」
掠れた声で礼を言うと、仁さんはほっとしたように息を吐いた。
俺はまだ玄関に座り込んだままで、仁さんもその場に膝をついて、俺の顔を覗き込んでいる。
「少しは落ち着いた?」
仁さんの優しい声に、こくりと頷く。
体はまだだるいけれど、あのどうしようもないパニック状態からは抜け出せていた。
でも、仁さんがすぐそこにいるという事実に、まだ少しだけ緊張が走る。
「楓くん、座り込んだままだと辛い、か。ベッドまで運んでいい…?」
仁さんの言葉に、俺は一瞬戸惑った。
でも、このままでは本当に辛い。
それに、仁さんは自分のために薬まで買いに行ってくれる、優しい友人だ。
「…俺はなにもしない。信じてくれ、楓くんをベットまで運ぶだけだ」
信頼できる。
俺は小さく頷くと、仁さんは俺をそっと抱き上げた。
まるで、小さな子供を抱きかかえるように。
その瞬間、約2ヶ月前の記憶が蘇る。
前に誘拐されたとき、仁さんが同じようにお姫様抱っこまでして助けてくれたこと。
あの時も、この温かさに、俺はどれだけ安心しただろう。
仁さんの腕の中は、不思議と落ち着く場所だった。
少しだけ汗のにおいが混じり合った仁さんの匂いが、俺を包み込む。
それでも、体はまだ微かに震えていた。
俺の震えに気づいたのか、仁さんは俺をベッドに降ろすと、優しく頭を撫でてくれた。
そして、ポケットからスマホを取り出すのが見えた。
「悪い、楓くん。俺がここにいると、まだ怖いと思うし、ちょうど楓くんのお兄さんと連絡先交換してたから事情話して来てもらおう」
仁さんの気遣いが、あまりにも優しくて、涙が出そうになった。
「それと…嫌じゃないなら、それ持っててくれていからさ」
「はい……っ、た、助かります」
そう言うのが精一杯だった。
すると仁さんは踵を返して玄関の方向に向かっていった。
俺が怖がらないためになのだろうが
なんだか申し訳ない
別にそんな怖がってないと言っても
微小に震えてる体は完璧には収まってくれないと知った。
兄が来るまでの間、俺は仁さんのジャケットを抱きしめて、ひたすら耐えていた。
ジャケットに残る仁さんの匂いが、不思議と俺の心を落ち着かせてくれる。
どれくらい経っただろうか。
玄関のドアが再び開き、今度は仁さんとは違う
少し慌てたような足音が聞こえた。
「楓!大丈夫か!?」
兄の声だ。
「兄さん……」
俺が腰を起こし弱々しく声を出すと、兄はすぐに俺のそばに駆け寄って、背中をさすってくれた。
仁さんは兄に状況を簡単に説明しているようだった。
「犬飼さんも、わざわざありがとうございます。弟が無事でよかったです…本当に助かりました」
兄が仁さんに頭を下げているのが見えた。
仁さんも「いや、お気になさらず。それじゃ、あとはよろしくお願いします」と返していた。
仁さんの足音が遠ざかり、ドアが閉まる音がした。
「楓、しんどかったな。よく頑張った」
兄が俺の額に手を当てて、熱を確かめる。
少しは下がったとはいえ、まだ熱いだろう。
「うん…まさか、いきなり……来るとは思わなくて…」
兄は俺の肩を抱き寄せ、ゆっくりとベッドの端に腰掛けた。
仁さんのジャケットは、まだ俺の肩にかかってい
る。
「本当に急だったんだな。前、岩渕ってやつに薬飲まされたとか言ってたよな?」
もしかしてその副作用なんじゃないか……?」
「…!副作用……って、お、俺、また発情するようになっちゃったってこと……っ?」
発情するようになったのはりとしては復活したと言っても過言では無い
でも俺にとっては地獄の始まりでしかない。
「分かんない。とりあえず、落ち着いたら念の為に病院にも行こう」
兄の言葉に、そういえば最近、微熱のようなだるさがあったことを思い出した。
「それで、薬、仁さんが買いに行ってくれたって聞いたけど、大丈夫だったのか?」
兄は俺の目を見て、優しく問いかける。
俺は、こくりと頷いた。
兄の隣にいると、ようやく完全に安心できた気がする。
「仁さんが、薬買いに行ってくれたんだ。それに……ベッドまで運んでくれて…」
兄は俺の言葉に、うんうんと頷きながら聞いてくれた。
仁さんの優しさが、胸にじんわりと染み渡る。
「よかったな。犬飼さんには俺から言っておくから」
兄の言葉に、俺はただくことしかできなかった。
仁さんの香りと、兄の存在に包まれながら、俺はこれからのことに思いを馳せた。
これからまた発情期が来る度に、さっきのようにさんに迷惑をかけるわけにはいかないし
何より自分がまともに発情できるようになったことが恐ろしい。
その恐怖が脳裏にちらつく度、涙が滲んだ。
「……俺、また、戻っちゃったのかな、ごめん兄さん…俺が、もっと警戒してたら…」
そんな俺の様子に気づいたのか、兄は俺をぎゅっと抱きしめてくれた。
「楓は悪くない。発情すんのも、恥ずかしいことじゃないんだから」
その言葉で、少しだけ心が楽になった気がした。