テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#TL
瀬名 紫陽花
12,527
74
605
翌日の午後。シオンはキングス・カレッジの委員会室の外で、よく磨き込まれた硬い長椅子に座っていた。身なりをきっちり整えたエドウィン・クローバーが向かいの長椅子に腰掛けている。
「まだ、コレラの研究をしてるんだって?」
「ああ、まだやってる」
クローバーはそれ以上何も聞かなかった。
初老の雑務係がドアを軋ませて委員会室から出てくる。
「クローバー先生、どうぞこちらへ」
彼は雑務係について部屋へ入った。ドアの閉まる大きな音が周囲に響き渡る。
一時間後、クローバーは満足気な顔で部屋を出てきた。それを見てシオンは小声で悪態つく。次は自分の番だ。
彼は部屋に入り、五人の委員の前に置かれた木の椅子に腰を下ろす。当代の最悪の疾病の一つであるコレラの治療に向けた計画を説明した。
「グレイ先生。提出なさった申請書と補足書類をこちらで精査しました」
委員の一人がむっつりとした表情で言う。
「一つの疑問が拭えません」
「どんな疑問でしょうか?」
「なんらかの進展が得られる確証はありますか」
どうも風向きがよろしくない。
「と、おっしゃいますと?」
「これまでのご経歴は、見るべきところがありませんね。はっきり申し上げて、なんの成果も上げていない」
「お言葉を返すようですが」
「例えばもう一つの申請者は、経歴によると《ランセット》誌だけでも二つの論文が掲載されています」
水道管に空気が入ったのか、壁のどこからか破裂音や警笛のような音が聞こえる。
「私も学術的な発表には、最大の敬意を」
「それに引き換え、あなたの経歴から伺えるのは、補助金の申請を繰り返してきたことだけです」
シオンは歯を食いしばって答える。
「投じた資金に見合った成果が得られると信じています」
「どんな成果ですか?そして補助金の額は?」
「三百ポンドあれば」
「三百ポンド?いまや貧民窟でしか見られない病気のために?」
他の委員たちが小声で賛同する。
「貧民窟の住民はすでに慣れています。生まれつきその環境にいるのですよ。そこで与えられた人生を生きるだけです」
「皆さんも私と同じ時期にあの人たちと一緒に過ごしたら、あんな環境にいなければ多くの人がもっとより良い人生を送れることが分かるでしょう」
「つまりどういうことですか?」
年配の医師が尋ねた。
「私が言いたいのは、五歳にならない内に苦痛に満ちた短い人生を終える子供が数えきれないほどいるということです。時々避けられぬ死をただ見守っているより、早く楽にしてやりたいと感じることさえあります」
「それはあなたと神の間の問題です。今論じているのは、貴方の補助金申請の問題ですよ」
「分かっています。話がそれて申し訳ありませんでした。先ほどのご質問自体にお答えします。ワクチンに利用できるヒト由来の物質はまだ特定できていません。私は人間以外の動物からワクチンを作らないかと考えているんです。例えば人間に最も近い親戚であるゴリラを感染させて血液を採取すれば、同じ祖先を持つのですから、この病原菌に対抗できるものが得られるかもしれません」
「では、我々は木にぶら下がれということか」
委員長の一人が呟く。
シオンが部屋に戻ると、テーブル代わりのトランクの上に栓のついた黒ワインが置いてあった。僅かに残っていた中身を飲み干し、ベッドで小さくいびきをかいている友を一瞥してから窓の外へ目をやった。通りは墓地のように静かだ。
その時、ワインの瓶の下に何かがあるのに気づく。電報だ。
彼は前日父親に電報を打ち、二年前にエセックスの親戚が関わって、悪辣な噂が広まった殺人事件の詳細を尋ねていた。返信はすぐさま届く。
「お前は医師としての仕事だけすればいい。それ以外には関わるな。事件が起こる以前から、忌むべき犯罪の疑惑があった。私には驚きでもなんでもない。レイングラス館には、昔から邪悪で不吉なところがある。神と法律に任せることだ」
普段空想めいた物言いをしない父が、「邪悪で不吉なところ」が家族ではなく家そのものにあると書いていることに、注目せずにはいられなかった。奇妙だ。
これまでレイングラス館に住む遠縁の人物とは一度も会ったことがない。シオンは数百マイル北の石畳の街ヨークで、両親にとって唯一生き残った子供として育てられた。両親はあまり関心がなく、十歳の時に寄宿舎のある学校へ入れた。
卑しい貴族の卑しい業務を請け負っている事務弁護士の父は、医師という職業に充分納得していた。しかし、母はシオンがハーレー・ストリートで富裕層相手の医療に携わることを望んでいたようだ。息子が感染症の研究と根絶の道に進んだことに不満を示したが、情熱は全く揺るがない。
こうなったらエセックスへ行くしかないと、シオンは心の中で呟いた。
レイ島はエセックス沿岸の塩性湿地にある。コルネ川とブラックウォーター川の河口の間に位置し、島になるかどうかは潮の高さで決まる。
満潮の時には本土から完全に切り離され、そこに一軒だけ建つ家は漂流して世界から隔絶されているように見える。本土とレイ島に挟まれた入江を覆う一面のアマモは、瀕死した無数の人々の指を思わせる。それは気まぐれに支流を漂い、本土のペルドン村まで流れている。
〈ペルドン・ローズ〉という宿屋のそばの沼は、高い物品税を逃れてヨーロッパ大陸から持ち込まれたブランデーや煙草の隠し場所として昔から利用。牡蠣漁師が密売して本業の収入を補っていた。沼の底には板が並び、引き上げるとタールで覆われた樽が水中から現れる。この樽の中から、コルチェスター中の宿屋がワインを、小物商が靴紐を買っていた。
実のところ課税対象の品物の四分の一がエセックス経由で国内に持ち込まれているにも関わらず、ここで徴収される物品税はないに等しい。収税吏が密輸入に気づいていないわけではないが、何年か前の朝。喉を掻き切られた二十二人の同僚が船内で見つかってからというもの、地元の商人の邪魔をする者はいなくなった。
レイ島の隣にはマーシー島がある。面積はレイ島の十倍で五十軒余りの家が建ち、ハードと呼ばれる小石だらけの砂浜がある。どちらの島にも山吹色のオグルマと紫色のスターチスが咲く。それらが根を張る砂利交じりの泥土は、ミヤコドリやツクシガモなどの水鳥を引き寄せている。
しかし、人間の訪問者は注意が必要だ。
干潮の時間帯には、本土から続くストルードという細い土手道が引き潮と共に現れる。土手道は幅一マイルのレイ島を横断し、マーシー島まだ続いている。だが、土手道を歩く者は潮見表の確認を忘れてはいけない。
辺鄙な屋敷の一つだけのレイ島で孤立するだけならともかく、ストルードを歩いている時に海面が上昇。アマモに足を取られることがある。
ローマ人が最初にレイ島に住み着いてからほぼ毎年、少なくとも一人が海藻に足を取られて命を落としてきた。死者たちはまだそこに漂いながら、音も立たず不満を言わずにゆっくりと手を絡めている。
コメント
1件
「第2話」、一気に引き込まれました。委員会でのやりとりがもう、胸が苦しくなるほどリアルで……「貧民窟の住民はすでに慣れている」という台詞に、当時の階級意識の冷たさが滲んでいてゾッとしました。そんな中でシオンが人間以外の動物からワクチンを作ろうと提案する発想の斬新さに、研究への執念を感じます。そして父からの電報。あの「邪悪で不吉なところ」という一文が、これから訪れるレイングラス館の空気を予感させてミステリとしての期待が一気に高まりました。エ♡♡♡の湿地帯の描写も詩的で不気味で、次が本当に待ち遠しいです!