休み明けに出勤した花梨は、妙に柊を意識していた。
見ないようにしていても、柊の声が耳に入ると、つい彼のことを観察してしまう。
(ああ、ダメダメ。仕事に集中しないと! こんな調子じゃ、いつかミスをしちゃうわ!)
そう思いながら、花梨は目の前の作業に集中した。
午後になると、花梨の元へ一通のメールが届いた。
浜田家の別荘への問い合わせは、あれからも何件か来ていたが、現在話が進んでいるのは、フリースクールを経営する菊田という女性だ。
その菊田から、現地を見に行く日程の連絡が届いたのだ。
花梨はすぐに柊のデスクへ行き、詳細を伝える。
「その日、予定は空いてるか?」
「すみません、二件アポイントが入っています」
「そうか……じゃあ、俺が一人で行ってくるよ」
「よろしくお願いします」
花梨は軽くお辞儀をして、自分の席へ戻った。
柊は、いつも通りビジネスモードに徹していた。
花梨の家で見せた男の色気はすっかり消え失せている。
あまりにも事務的な対応に、あの出来事は夢だったのではないかと思うほどだ。
(この方が、仕事がやりやすくていいじゃない)
そう自分に言い聞かせながらも、花梨はどこか物足りなさを感じていた。
同じ頃、村田トラスト不動産の給湯室では、卓也と莉子が話をしていた。
「今夜、話したいことがあるんだ。早く帰ってこられる?」
「え? 改まって何の話?」
「それは、今夜話すよ」
「分かったわ」
用件を伝え終えた卓也は、給湯室を後にした。
そんな卓也の様子に、莉子は一抹の不安を覚える。
実は、莉子はあの日、ひどい目に遭っていた。
マッチングサイトで知り合った男性に無理やり食事に連れて行かれ、その後、強引にホテルへ連れ込まれそうになった。
たまたま巡回していた警察官に助けを求め、大事には至らなかった。
一連の出来事に怖くなった莉子は、登録していたマッチングアプリをすべて退会した。
あの男に職場を知られていたが、今のところ嫌がらせなどはされていない。
それも当然だ。警察官とともに交番へ行き、身分証を提示して事情聴取も受けているため、相手も軽率な行動は取れないのだろう。
(本当にひどい目に遭ったわ……。あんなことになるくらいなら、卓也と暮らしていた方がまだマシよ。花梨先輩に負けるのは悔しいけど、新しいハイスぺ彼氏を見つけるまで、このままおとなしくしていた方が得策だわ……)
莉子はそう思い、あれ以来、なるべく早く家に帰るようにしていた。
もちろん、家事は相変わらず手抜きだったが、何もしなかった以前よりはかなりマシだ。
(それにしても、卓也、最近どうしちゃったんだろう? ベッドで誘っても全然乗ってこないし。忙しすぎて性欲がなくなっちゃったのかしら? こんなのが続いたら、私の方が欲求不満でどうにかなりそう)
その時、莉子はハッとした。
(え? 待って! 今夜、改まって話があるってことは……もしかして、プロポーズ? ええっ、どうしよう! 私、卓也と結婚するって決めたわけじゃないのに……)
そう思いながらも、莉子の顔には自然と笑みがこぼれていた。
(花梨先輩から奪った男が、とうとう私の前にひざまずいてプロポーズするのね。ふふっ、まんざらでもないわね。さーて、なんて返事をしようかなー)
莉子は急にウキウキし始め、鼻歌を口ずさみながら給湯室を後にした。
その夜、莉子は高級スーパーに立ち寄り、美味しそうな総菜や洒落たデザートをいくつも買って帰った。
もしかしたら、今夜は記念日になるかもしれない。
そう思うと、金額などは気にせずに、豪華に見える総菜類をいくつもカゴに入れた。
マンションに到着すると、莉子はルンルンしながら部屋へ入った。
「ただいま~」
「お帰り」
卓也は予想通り先に帰宅しており、莉子を待っていた。
(ふふっ、やっぱりプロポーズする気満々じゃない! 予想通りね)
そう思いながら、莉子は買ってきたものをキッチンへ運ぶ。
その時、リビングに飾ってあったピンクの雑貨類が、室内から消えていることに気づく。
「え? 私の小物はどこへ行ったの?」
「悪いけど、全部そこの箱に入ってる。急で申し訳ないけど、この部屋は今月いっぱいで解約することにしたよ」
「え?」
莉子は驚き、持っていた紙袋を床に落とした。
「ど、どういうこと? なぜ、この部屋を解約するの?」
「もうここに住む必要はないからね」
「どうして? ここは、私たちの愛の巣でしょう?」
莉子が必死に訴えるのを見て、卓也は突然大声で笑い出した。
「はははっ、『愛の巣』? 君は何を言ってるんだ? あはは、可笑しくて笑いが止まらないよ、ははははっ」
まるで気が狂ったかのように卓也が笑い続けるので、莉子は訳がわからず、困惑した様子で卓也に訴えた。
「どうして? どうしてこの部屋を出なくちゃいけないの?」
その問いに、ようやく卓也が笑うのをやめ、莉子に向かって言った。
「俺たち、別れよう」
その一言に衝撃を受けた莉子は、大声で叫んだ。
「何を言ってるの? 卓也、気が変になったの?」
「変になってなんかないよ。むしろ、今までの方がおかしかったのかもしれない。俺は花梨と別れるべきじゃなかったんだ」
「はっ? どういうこと? 花梨先輩の方が私よりも良かったって言いたいの?」
「そうだよ」
卓也がはっきりと言い切ったことで、莉子は一瞬怯んだ。しかし、プライドの高い彼女がそれで引き下がるはずもなかった。
「ねぇ卓也、どうしちゃったの? 私のこと、あんなに好きって言ってくれたじゃない。私とのセックスだって、刺激的でたまらないって……。だから、卓也は花梨先輩と別れて私のところへ来たんでしょう? それを、今さらどうしたっていうの?」
莉子は瞳を潤ませながら必死に訴える。
しかし、その演技じみた仕草は、今の卓也にはまったく通用しなかった。
「よく言うよ……君は俺のことを利用しただけのくせに」
「え?」
卓也は、自分の預金通帳を莉子の前に放り投げると、言った。
「生活費に使ってって渡したはずなのに、もう、口座が空っぽじゃないか。この中の300万、いったい何に使ったんだ?」
まさか今、お金のことを持ち出されるとは思っていなかった莉子は、しどろもどろになる。
「そ、それは……家計費に使ったのよ……卓也に少しでも栄養のあるものを食べさせたくて……」
そう言いながら、莉子は床に投げ出された高級スーパーの紙袋をチラリと見た。
卓也はその紙袋を拾い上げ、中を覗いてから言った。
「高級スーパーの総菜だけで、あんな大金が一瞬で消えるか? あの金は、花梨と付き合っていた頃に、結婚費用として貯めていたものなんだ。それを、まさか君が全部使い込んでいるなんて夢にも思わなかったよ。せめて、半分、いや、三分の二は返してもらわないと」
卓也の言葉に、莉子は急に慌て始めた。
「そっ、そんなお金、あるわけないじゃない!」
「だったら、せめて半分は返してくれないか?」
「なっ、ないわよ。とっくに使っちゃって、あるわけないじゃない!」
開き直った莉子の言葉に、卓也は大きく息を吐いた。
「じゃあ、100万。100万だけでも返してもらえないか? 今手元にないなら、分割でもいい。返済についての詳細は、またメッセージで送るよ。じゃあ、俺は行くね」
「ちょっ、ちょっと待ってよ。行くって、どこに行くのよ?」
「もう次に住む所は借りてある。残りの荷物は今度の休みに取りに来るから」
卓也はそう言い残し、スーツケースとボストンバッグを手にして玄関へ向かった。
「ちょっ、ちょっと卓也! 卓也ったら!」
莉子のすがるような声に振り返ることもなく、卓也は部屋を去っていった。
虚しく響くドアの音を聞きながら、莉子はただ茫然とその場に立ち尽くしていた。
コメント
34件
仕事に集中モードの柊さまだけど きっと頭の中は花梨ちゃんでいっぱいで…😘💕💕 ニヤけたり油断しないように、一生懸命集中してるんだと思うよ…🤭💓 ようやく目が覚めて莉子との別れを決意した白タクだけど、気づくのが遅すぎたね💦 花梨ちゃんには 守ってくれる素敵な人が現れたから、彼女の幸せを邪魔しないであげてね…🍀
と、非常階段! ねっ!とこたんさん♡
ザマぁ〜😎