六月の雨は、途切れることなく続いていた。
屋上の扉が開かれることは、この一週間なかった。
代わりに、ふたりは図書室の隅で顔を合わせていた。
古い本棚の陰、誰にも気づかれない場所――そこが、今の“ふたりの屋上”だった。
「……ねぇ、最近、先生たちの目が厳しくない?」
「たぶん、誰かに見られてる。放課後に一緒にいるところとか」
「うざいね。放っておいてくれればいいのに」
「“普通じゃない”ってだけで、みんな干渉したがるんだよ」
美咲は机に頬をつけたまま、小さくため息をついた。
雨が窓を叩く音だけが、教室の外から聞こえてくる。
「このまま、もっともっと異常になれたらいいのに」
「もう十分、異常だと思うけど」
「足りないよ。まだまだ、私たち、“人間の枠”に縛られてる」
「たとえば?」
「ふたりで失踪とか。夜の橋から飛び降りるとか。……“それくらいやらなきゃ”、この世界から逃げられない気がするの」
その言葉に、優羅は何も返せなかった。
本当に逃げたいのは、美咲だけじゃない。
優羅もまた、同じくらい切実にこの現実から逃げたがっていた。
その日の帰り道、美咲は優羅の家に“偶然”を装ってやってきた。
母親は不在。家の中は静かすぎるほどだった。
「泊まっていけば?」
「……いいの?」
「だめって言っても、たぶん帰らないでしょ」
美咲は苦笑しながら頷いた。
「シャワー借りてもいい?」
「うん。タオル、そっちにあるよ」
浴室の扉が閉まったあと、優羅はソファに座りながら何度も自分の手を見つめた。
何かが、変わろうとしている。
いや、もう戻れない場所まで来てしまった気がしていた。
しばらくして、髪を濡らしたままの美咲が部屋に戻ってきた。
白いTシャツ一枚。薄い布地が肌に張りついて、輪郭が透けて見える。
「……着替え、これしかなかった」
「……そっか」
「ねえ、抱きしめて」
その言葉は、突き刺さるように心に響いた。
優羅は立ち上がり、何も言わずに美咲を抱きしめた。
細くて、柔らかくて、あたたかい。
けれどその中には、確かに“歪み”が潜んでいた。
「このまま、逃げたい」
「どこに?」
「どこでもいい。ふたりがいるなら、どこでも」
「……でも、どこに行っても、私たちは“私たち”のままだよ」
「それでも、いい。私は、優羅さんとなら――壊れても、逃げても、生きても、死んでも、なんでもいい」
その言葉に、優羅の中の最後の“理性”が崩れた。
ふたりは、もうどこにも逃げられなかった。
家庭からも、学校からも、社会からも。
そして――互いからも。
夜。
布団を並べて、ふたりで静かに眠る準備をしていたとき、美咲がそっと口を開いた。
「ねえ、もし、いつか私がいなくなったらどうする?」
「……どういう意味?」
「たとえば、急に姿を消したり、事故に遭ったり、死んじゃったり。そういうとき、優羅さんはどうする?」
優羅は黙ったまま、美咲の手を握った。
「私も消えるよ」
「……」
「だって、あなたがいない世界なんて、生きてる意味ないから」
美咲は小さく笑って、目を閉じた。
「……安心した」
優羅は、寝ているふりをした。
本当は、ずっと泣いていた。
どこにも逃げられない。
ふたりの関係は、もう“逃げ場”ではなかった。
それは檻だった。互いを閉じ込める、甘くて鋭利な檻。
でも、それでいいと、ふたりは思っていた。
だって、この檻の中にしか、居場所がなかったから。
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