「お! 来た来た」
「お疲れ~」
「ビールでいい?」
「マジ、疲れたー」
「わ! 美味しそう。お腹空いたぁ」
「簑島、なんでスーツ?」
口々に挨拶を交わし、三人は空いている椅子に座る。
近藤が香苗の、槇《まき》ちゃんが簑島の正面に座る。
そして、三人目が、真っ先に私の正面に座った。
「久し振りだな、千恵」
匡《きょう》……。
夢に見た男。
会いたくなかった男。
記憶よりずっと大人びた雰囲気で、けれど記憶のままの声と、眼差し。
『熱、ある?』
夢の中の彼の台詞と、私を揺さぶる汗ばんだ身体を思い出し、私は彼から顔を背けた。
「あれ? 篠塚と柳澤《やなぎさわ》って仲良かった?」
「うん? 俺ら、一年一緒だったから」
匡が、簑島の問いに答える。
「ああ! そっか。あれ? 近藤も?」
「ああ。庄田《しょうだ》もだろ?」
「うん。私と千恵と近藤と柳澤が一年一緒。で、私と千恵と真奈美と簑島と槇ちゃん、近藤と柳澤が二、三年一緒」
「俺と槇野《まきの》、一年一緒だったよな」
「うん」
「懐かしーねー」
ワイワイ話しながらも、香苗は三人分の料理を取り分ける、簑島が手伝う。
全員が揃ったからと、もう一度乾杯しようと真奈美が全員のドリンクを注文する。
私は、近藤のロン毛を眺めながら、頬に感じる視線に気づかないフリを貫く。
「しっかし、バツイチ多くねー? ふたクラスでこんなにいんだろ?」
「今時、こんなもんじゃない? 五年後は倍になってるんじゃない?」
「それはそれで、再婚してる奴もいるだろうし、人数は変わんないかもな」
「折角集まったんだし、自己紹介の代わりに離婚理由でも言っとく?」
「マジ、やめて。忘れたいんだから」
「そうだよ。思い出すと暴れたくなるから」
「槇ちゃん、どんな別れ方したの……」
「あ、てか、みんな名字変わってない?」
「私、庄田じゃないよ。木下《きのした》を経て、現在は茶畑《ちゃばた》」
真奈美が言った。
この場では、唯一の既婚者だ。
というか、バツイチは『未婚』という表現に当てはまるのだろうか。
二択なら未婚になるが、『未だ結婚していない』という意味合いでは違う。
そんなどうでもいいことを思った。
「私は今、木下」と言ったのは香苗。
彼女の旧姓は鈴本《すずもと》だ。
「子供の名字変えるの可哀想で、元旦那の名字のままなんだ」
「木下かぁ……。秒で忘れんな」と、近藤が頷く。
「もう鈴本もピンとこないから、名前でいいよ」
「わかった、香苗」
「きゃー! 元旦那以外の男に名前呼ばれるのなんて、何年振りだろ。しんせーん」
既に酔っているかのようなテンションで、香苗は両手を頬に当てて、わざとらしく照れた仕草をして見せる。
「わかる! 私なんて元旦那にも名前呼ばれたのいつか思い出せないわ。『お前』呼びされてたから」
「槇ちゃん……」
全員分のビールと、ジンギスカンの唐揚げ、マルゲリータピッツァが運ばれてきて、テーブルが一杯になった。
改めて乾杯をする。
正面から目の前にずいっとジョッキが差し出され、私はジョッキの中の気泡を見つめたまま、一瞬だけ自分のジョッキをぶつけた。
どうして平気な顔、してられるの。
どんな顔をしているかはわからない。
見ていないから。
けれど、私を見ているのはわかる。
見られたくなかった。
若くて元気いっぱいで、卑屈になるなんて知らない私だけを憶えていてほしかった。
バツイチで、白髪染をして、肌はテカっていて。
彼にだけは、見られたくなかった。
「篠塚は東京にいたんだろ?」
ぼんやりしていたから、間近に簑島の声を聞いて、ハッと顔を上げた。
「あ、うん」
「離婚して帰ってきた?」
「そう」
「匡も東京じゃなかったか? 大学」と近藤が箸にザンギを刺し、小さく振った。
「ああ」と、匡が短く答える。
「親父さんが倒れなきゃ、東京で就職してたんだろーな?」
「え――?」
お父さんが倒れた……?
「どうかな。就活苦戦してたから、やっぱ帰ってきてたかもな」
ははは、と匡が笑う。
私は簑島に顔を向けたまま、視線だけ匡が持つジョッキに動く。
なんで、そんな嘘……。
『やっぱ、就職しようかな』
両手を組んで頭の上にのせ、んーっと上体を仰け反らせて身体をほぐしながら、匡は言った。
『彼氏が学生って、恥ずかしくない?』
私は小さなキッチンで、インスタントコーヒーが入ったカップ二つにお湯を注ぎながら、『どこが?』と聞く。
『ヒモみたいじゃん』
『養う気なんかないけど?』
『それでも! そんな男やめて俺にしなよ、とか言い寄ってくる奴、いそうじゃね?』
カップの中をスプーンでかき回す私は、ふんっと笑う。
『二年後にはあんたより高給取りになってるんで、って笑ってやる』
『すげープレッシャーなんだけど?』
『じゃ、のりかえる』
『できないくせに』
『なんでよ』と、今度はムッとする。
二つのカップを持って、ソファにもたれるように座る匡の元にいく。
カップを一つ渡すと、『サンキュ』と言って彼は口をつけた。
『二年後に俺が就職したら、もう少し広い部屋に引っ越そうな』
『そう? 私は気に入ってるけど、この狭さ』
匡の隣で膝を曲げて座り、カップの中の黒い液体にふぅっと息を吹きかける。
『セックスん時、落ちる心配のないベッドが欲しい』
『不純な動機ー』
ケラケラと笑う私の肩を抱き、匡が頬に口づける。
その唇は、ほんのり温かい。
『これほど大事で切実な動機はないだろ』
ジョッキの中でしきりに湧き上がる気泡を眺めながら、懐かしい、幸せだったひと幕を思い出す。
匡は大学院に進む予定だった。
就活なんてしていない。
結果的に大学院には行かなかったが、就活に苦戦して実家に帰ったなんて真っ赤な大嘘だ。
それだけじゃない。
卒業式の三日前、いつもより少し強引に、かなり激しく私を抱いた後で、匡は言った。
『俺、実家帰るから』
整わない呼吸が一瞬止まる。
『兄貴がさ? 実家継ぎたくないって言い出して』
『だからって、今すぐ?』
『継ぐなら、大学院に行く必要ないし』
狭いベッドの上で、匡は仰向けで頭の下で手を組み、天井を見ながら言った。
『一緒に来るか?』
何の熱も感じない問いに、私も反射的に答えた。
『バカにしないで』
匡は私を見ない。
『なんで? 未来の社長夫人だぞ?』
だから、私も彼から顔を背けた。というか、背を向けた。
『興味ないわ』
あの時、匡はどんな表情《かお》をしてた……?
十六年も前のことだ。
今更だ。
匡の言葉の何が嘘で何が本当か、わかったところで今更だ。
社長夫人に興味がないと言った私は、その三年後にちゃっかり社長夫人となった。
それを、匡が知っているかはわからない。
きっと、知っているだろう。
だからどうということはない。
今更だ。
「千恵?」
ぼうっとしたいたせいで、名前を呼ばれて思わず顔を上げてしまった。
思いっきり、匡と視線が絡む。
「熱、ある?」
夢の中で聞いた台詞。
夢と現実、過去と現在が交差する。
夢の中で、私は『ある、かも』と答えた。
過去の私も、そう。
けれど、私は夢の中の私とも過去の私とも違う。
もう、違う。
だから、私は言った。
「ないわ」
匡がどんなつもりで聞いたかなんて、わからない。
だから、どうして少し寂しそうに笑ったのかも、わからない。
わかりたくない。
わかるのが怖い。
「嘘つきだな、俺たち」
匡が、言った。
口元は笑っているのに、目が笑っていない。
会いたくなかった。
匡の嘘も、本当も、知りたくなかった。
それ以上に、知られたくなかった。
私の嘘と本当を、知られたくなかった。
『一緒に来るか?』
十六年前。
匡は最後まで『一緒に来てほしい』とは言わなかった。
『行かない』
私は、何度目かもそう答えた。
『お前には、俺じゃなきゃダメだろう?』
最後の時、匡が言った。
朝ご飯の後で歯を磨いた匡が、使った歯ブラシをゴミ箱に捨てた。それを見た時、残された私の歯ブラシを見た時、身体の半分を失ったような、多分、そんな気持ちになった。
それでも、私は、笑った。
笑って、言った。
『バカにしないで。あんたじゃなくても幸せになれるわ』
私は嘘なんて言ってない。
私は、匡とは違う。
だから、そう言った。
何でもないようなことのように。
「私は、嘘つきじゃない――」
自分のその声が、やけに嘘っぽく聞こえた。
私は中身が半分残ったジョッキを、一気に空にした。
「そうだな。千恵は、嘘つきじゃない」
匡が私の手からジョッキを抜き取り、「お代わり注文する人!」とみんなに聞いた。
真奈美がタブレットで、みんなの飲み物を注文する。
何杯飲んだかわからない。
トイレに行こうと立ち上がって、ふらつくくらいは飲んだ。
力強い手に支えられてトイレに行き、席に戻った。戻ろうとした。
「千恵は、素直じゃないだけだよな」
瞼の重みに耐えかねて、目を閉じるとともに、聞こえた気がした。
夢にまで見た、匡の声。
あ、夢か。
目が覚めたらまた病院のベッドかもしれないな、なんて思いながら、私は意識を手放した。