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第176話 戻る輪郭
【現実世界・駅周辺対応点/規制区域内・朝】
駅前の空気が、変わり始めていた。
最初は、誰もそれを言葉にできなかった。
歪んでいたロータリーの白線が、ほんの少しだけ濃くなった。
半分だけ溶けたように見えていたバス停の標識が、ゆっくりと縦に伸びる。
駅舎の柱の影が、揺れながらも本来の位置へ戻ろうとしている。
完全ではない。
まだ揺れている。
けれど、さっきまでのように、
現実と異世界の境目が泥のように混ざっている感じではなくなっていた。
一人の駅員が、規制線の内側で思わず立ち止まった。
「……あれ、改札の位置だ」
すぐ横にいた警官が低く言う。
「声を抑えてください。避難者が動きます」
駅員は口を閉じた。
だが、目だけはそこから離れない。
現実の駅前だった。
ずっと見慣れていたはずの場所。
毎日、人が通り、バスが来て、学生が走り、会社員が改札へ吸い込まれていく場所。
それが、ほんの一部だけ、戻ろうとしている。
規制線の外では、避難していた人々がざわつき始めていた。
「今、看板が見えた」
「駅名、読めたよな」
「戻ってるんじゃないのか」
警官たちは声を張る。
「下がってください!」
「まだ確認中です!」
「前に出ないでください!」
人々は一歩、前に出かけて止まる。
止まるが、目は希望に引っ張られている。
恐怖だけでは、人は動けない。
けれど希望もまた、人を動かしてしまう。
その場にいた責任者が無線へ言う。
「駅前、避難者に動きあり」
「大きな混乱ではないが、期待が広がっています」
返ってきた城ヶ峰の声は、短かった。
『押さえろ』
『だが、希望を潰すな』
『“安全確認中”で統一しろ』
「了解」
警官は深く息を吸い、人々へ向き直った。
「安全確認中です!」
「必ず順番に案内します!」
「今は動かず、この位置を保ってください!」
その言葉に、誰かが泣いた。
怖くて泣いたのではない。
帰れるかもしれないと思ったからだった。
◆ ◆ ◆
【異世界・駅周辺/臨時防衛線・朝】
異世界側の駅周辺でも、同じように輪郭が戻り始めていた。
石畳の上に、現実の白線が浮かんでいる。
最初は薄かったそれが、今はもう、目を凝らさなくても分かる。
駅前の柱らしき形が、木組みの柵の向こうに重なっている。
歪んでいた金属の柵の影も、現実側のガードレールに近い形を取り戻し始めていた。
兵士たちは、それを見ても前へ出なかった。
事前に命令されていたからだ。
動くな。
押すな。
戻ったように見えても触るな。
光具の線を踏むな。
それでも、顔には出る。
若い兵士の一人が、隣の術師へ小声で言った。
「本当に戻るのか」
術師は光具から目を離さずに答える。
「戻るかもしれない」
「でも、戻している途中が一番壊れやすい」
その言葉で、兵士は口を閉じた。
光具は二つ。
イデールが王都から回した小型のものだ。
器の中の白い光は、細く、けれど途切れずに駅前へ伸びている。
指揮兵が声を上げる。
「第一列、その場」
「第二列、下がって通路を開ける」
「避難者を動かすな。見せすぎるな」
だが、完全に見せないことはもうできない。
異世界側へ避難していた人々の中にも、駅前の変化は伝わり始めていた。
現実側の柱。
白線。
看板の影。
それを見て、誰かが震える声で言う。
「……帰れるの?」
指揮兵は、その問いにすぐ答えなかった。
答えたくなかったのではない。
軽く答えてはいけないと分かっていたからだ。
「今、戻すための確認をしています」
「動かず待ってください」
それが精一杯だった。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館脇・朝】
体育館の床を走る光の線は、さっきよりも少しだけ強くなっていた。
強くなったといっても、爆発するような光ではない。
水面に朝日が伸びるような、細くて静かな光だ。
ハレルは主鍵を握ったまま、その光を感じていた。
駅周辺まで線が届いている。
遠いのに、遠くない。
手の中の熱が、どこか別の場所から返事をもらっているように震えている。
ノノの声がイヤーカフから入る。
『第一層、安定継続』
『第二層、同期維持』
『第三層、薄く乗せる』
『ここからは、出口側を潰さないための層』
リオが右腕の副鍵へ手を添える。
「第三層は俺か」
『リオだけじゃない』
ノノが答える。
『アデルの副鍵にも薄く乗せる』
『二つの副鍵で同じ方向を見せる』
『押さない。引っ張らない。支えるだけ』
「了解」
リオの声は短いが、いつもより慎重だった。
サキは紙へ記録しながら、時々スマホを見る。
現実側からの情報が、細かく流れてくる。
《駅名標 一部復元》
《ロータリー白線 濃度上昇》
《避難者動揺あり》
《誘導維持》
「……向こうの人たちも、見えてるんだ」
サキが呟く。
「見えれば動く」
ダミエが言う。
「だから、動かさないようにする」
「でも、見えたら嬉しいよ」
サキは小さく返した。
「それは止められない」
ダミエはそれには答えなかった。
レアは箱の中で、体育館の床を走る光を見ていた。
「第三層」
ぽつりと呟く。
ハレルが目を向ける。
「何か分かるのか」
「少し」
レアは答える。
「一層目は道」
「二層目は揺れを逃がす」
「三層目は、出口を覚えさせる感じ」
その言葉に、サキが手を止めた。
「出口を覚えさせる?」
「うん」
レアは膝を抱えたまま言う。
「戻る場所を、忘れないようにする」
「そうしないと、似た場所に寄っていく」
それは、前にレアが言った“寄せる”という言葉と繋がっていた。
ノノの声がすぐに入る。
『今の記録した』
『出口を覚えさせる、ね』
ダミエが低く言う。
「便利なことを言うな」
「便利でしょ」
レアは少し笑った。
「私、情報源だから」
リオが冷たく返す。
「調子に乗るな」
レアはそれ以上言わなかった。
ハレルは主鍵を握り直した。
道を作る。
揺れを逃がす。
出口を覚えさせる。
少しずつ、言葉が分かるものになっていく。
帰還が、願いではなく作業になっていく。
そしてその作業が今、初めて現実を動かしている。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/北西区画・朝】
アデルの左腕の副鍵にも、薄い光が宿っていた。
北西区画の前線に立ちながら、その光だけが学園と駅周辺へ細く繋がっている。
戦いのための光ではない。
支えるための光だ。
ヴェルニが横から覗き込む。
「それ、大丈夫なのか?」
「大丈夫にする」
アデルが答える。
「気をつけろよ」
「お前よりは慎重だ」
「ひどい言い方だな」
ヴェルニは笑ったが、すぐに前へ視線を戻した。
北西区画の奥には、まだ獣影の気配がある。
ジャバの姿はない。
だが、黒い塊は石壁の向こうで低く蠢いている。
いつまた前へ押してくるか分からない。
イデールが後方からアデルの腕の光を見て言った。
「駅側、乗った?」
「ああ」
アデルが答える。
「第三層を薄く支える」
「無理はしないでよ」
イデールが言う。
「こっちで倒れられると困る」
「分かってる」
「本当に分かってる?」
アデルは少しだけ黙った。
ヴェルニが横で笑う。
「分かってない時の顔だな」
「黙れ」
イデールはため息をつくが、その表情には少しだけ柔らかさもある。
「駅が少しでも安定すれば、北西も助かる」
「人の流れが作れる。物資も動かせる。治療にも回せる」
アデルは頷いた。
「だから支える」
「そういうところ、本当に変わらないね」
「お互い様だ」
短いやり取りのあと、アデルは北西区画の奥を見た。
今は少しだけ希望がある。
だが、希望があるからといって前線が楽になるわけではない。
むしろ、守る理由が増えた分だけ、ここを落とせなくなった。
「前列、警戒維持」
アデルが命じる。
「ただし無理に押すな。今は保てばいい」
兵たちが応える。
希望を守るための防衛線が、北西区画にも通り始めていた。
◆ ◆ ◆
【現実世界・湾岸方面/資材ヤード・朝】
日下部の画面には、新しい表示が出ていた。
《THIRD LAYER / PARTIAL MEMORY》
《STATION AREA / ALIGNMENT INCREASED》
《FIXED POINT / RESPONSE WEAK BUT STABLE》
「第三層、反応あり」
日下部が言った。
「出口側の形を保持し始めてます」
村瀬が目を見開く。
「じゃあ、駅周辺は」
「まだ戻ったわけじゃありません」
日下部はすぐに言う。
「でも、戻る場所を間違えにくくなってる」
「このまま少しずつ維持できれば、駅周辺の一部は現実側へ寄せられる可能性が高い」
佐伯が小さく息を吐いた。
「……可能性が高い、ですか」
「はい」
日下部は画面から目を離さずに答える。
「初めて、その言い方ができます」
その言葉に、資材ヤードにいた数人が顔を上げた。
可能性が高い。
まだ確定ではない。
でも、今までの“かもしれない”とは違う。
数値を見て言える段階になった。
木崎は遠くを見る。
警官列。
壊れた保管棟の方角。
それから、駅周辺に繋がる導線。
ラストは今も見えない。
それが不気味であることに変わりはない。
だが、今はその見えない敵だけに気を取られている場合ではない。
「城ヶ峰」
木崎が言った。
「駅周辺の人を、少しずつ後ろへ下げた方がいい」
「戻っているのにか」
「だからだ」
木崎は答える。
「見えたら前へ出る。
希望で走らせるな」
城ヶ峰は短く頷いた。
「誘導班へ伝えろ」
「“安全確認のため後退”で通せ」
「避難と言うな。
逃げろとも言うな」
隊員が走る。
希望を見せる。
でも走らせない。
戻す。
でも広げない。
その難しい調整が、現実側にも求められていた。
◆ ◆ ◆
【現実世界・駅周辺対応点/規制区域内・朝】
駅前のざわめきは、少し大きくなっていた。
駅名標の文字が、今度は二文字まで読めた。
ロータリーの白線が、数秒ではなく十秒近く形を保った。
自動改札らしき影が、一瞬だけ金属の輪郭を持った。
そのたびに、避難者たちが息を呑む。
「戻ってる」
「絶対戻ってる」
「行かせてください、家族が――」
警官がすぐに止める。
「安全確認中です!」
「今は動かないでください!」
「必ず案内します!」
そこへ、新しい指示が入る。
「安全確認のため、規制線を一段後ろへ下げます!」
「押さずに後退してください!」
「これは避難ではありません、確認のための移動です!」
人々の間に、少しだけ不満が走る。
せっかく戻りかけているのに、なぜ下がるのか。
そんな顔がいくつも見える。
けれど、警官たちは止まらない。
希望に近づきたい人々を、希望から少しだけ離す。
それはとても難しい作業だった。
一人の女性が、涙を拭いながら言った。
「本当に戻るんですよね」
警官は答えに詰まった。
戻る、と言ってはいけない。
でも、何も言わなければその女性の目が折れる。
だから、彼は少しだけ言葉を選んだ。
「戻すために、今やっています」
「だから今は、ここで待ってください」
女性は唇を噛み、ゆっくり頷いた。
その言葉は、周囲にも伝わった。
戻る、ではなく、戻す。
誰かが今、やっている。
それだけで、人々はもう少しだけ待てた。
◆ ◆ ◆
【異世界・転移した学園/体育館脇・朝】
学園では、第三層の光がゆっくり安定し始めていた。
ハレルの主鍵。
リオの副鍵。
遠く北西で支えるアデルの副鍵。
その三つが、強く結びつくのではなく、互いに向きを合わせながら細い形を保っている。
サキは紙に書き込みながら、ふと手を止めた。
「戻る、じゃなくて、戻す……」
ハレルが顔を向ける。
「どうした」
「現実側で誰かが言ってそう」
サキはスマホを見ながら言う。
「“戻すために、今やってる”って」
ハレルは、その言葉を少しだけ胸の中で繰り返した。
戻る。
それは待っている感じがする。
でも、戻す。
それは自分たちがやっていることだ。
「……そうだな」
ハレルが言った。
「戻るんじゃない。戻すんだ」
リオも静かに頷く。
「なら、保て」
ダミエが続ける。
「今はそれが仕事だ」
レアは、箱の中から三人を見ていた。
「……いい言葉だね」
ぽつりと言う。
サキが少しだけ警戒しながら見る。
レアは今度は笑わなかった。
「待ってるだけじゃない方が、怖いけど強い」
その言葉に、誰もすぐには返さなかった。
体育館の床を走る光は、まだ細い。
でも、もうただ細いだけではない。
道になり、支えになり、出口を覚えさせる層になっている。
◆ ◆ ◆
【異世界・王都イルダ/臨時分析拠点・朝】
ノノは端末の表示を見つめていた。
《第一層:安定》
《第二層:同期》
《第三層:部分保持》
《駅周辺:整列上昇》
セラが横で静かに言う。
「ここまでは、成功です」
ノノは頷いた。
「うん」
「ここまでは」
“ここまでは”という言葉に、自分でも少しだけ引っかかる。
でも、それを消す必要はない。
警戒は消してはいけない。
ただ、今の成功まで疑ってしまえば、何も進められなくなる。
ノノはイヤーカフを開いた。
『全班へ』
『第1試行、第三層まで通過』
『駅周辺、部分整列が進んでる』
『まだ完了じゃない。でも、光路は機能してる』
少しだけ間があった。
そして、あちこちの回線から小さな息が返ってきた。
安堵。
驚き。
希望。
それぞれの場所で、言葉にならないものが生まれている。
ノノはそれを聞いて、ほんの少しだけ目を閉じた。
長くは閉じない。
すぐに開く。
画面を見る。
まだ終わっていない。
でも、ここまで来た。
「次は、保ったまま範囲を確認する」
ノノが言う。
「広げない。焦らない。
でも、止めない」
セラが頷いた。
「はい」
◆ ◆ ◆
駅周辺の輪郭は、少しずつ戻っていた。
現実側では、駅名標の文字が読めた。
異世界側では、石畳の上に現実の白線が浮かんだ。
学園では、主鍵と副鍵が光路を支えた。
王都では、北西の防衛線がその時間を作った。
完全ではない。
まだ危うい。
けれど、確かに世界は少しだけ元の形を思い出した。
人々は前へ出たくなり、兵士たちはそれを抑え、警官たちは希望を潰さずに後ろへ下げる。
戻り始めた世界は、喜びと危うさを同時に連れてきた。
それでも、誰かが言った。
戻るのを待つのではない。
戻すために、今やっている。
その言葉は、細い光路の上を静かに走っていった。
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