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低気圧
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第3話 澄明が見ているぞ
それから数週間。
積み重なった訓練札の数だけ、小型霊獣の言葉は増えていった。教えられた言葉、拾った言葉、それらが少しずつ結びつき、朝の挨拶から夜の報告まで、生活のあらゆる場面に言葉が届くようになっていく。
まだ言葉を探して途中で止まることはある。目を伏せ、指先で膝を押さえながら、次の音を探すような沈黙が挟まることもあった。それでも、自分が何を望み、何を嫌がっているのかは、かなり明確に伝えられるようになっていた。
その日、小型霊獣は中庭から訓練室へ戻る途中だった。午後の陽が長く伸びて、石畳に自分の影を落としている。
背後で、低い唸り声がした。振り返ると、肉食系由来の半獣型霊獣が、少し離れた場所に立っている。まだ由来反応が強く残る個体だった。小さく動くものへ視線が吸われ、逃げるものを追う――訓練によって少しずつ抑えられるようになってはいるが、本能が先に出ることもある。
肉食系霊獣の肩が、低く沈んだ。小型霊獣の橙色の体毛が逆立つ。喉の奥に、恐怖とは違う、冷静な緊張が走った。
「来るな」
短く言った。だが、肉食系霊獣は止まらない。一歩、さらに一歩。喉の奥から唸りが漏れる。
少し離れた場所にいた大型霊獣が、その気配に気づいた。金色の瞳が鋭くなり、すぐに地を蹴る。だが、辿り着くより先に――小型霊獣が口を開いた。
「澄明が見ているぞ」
肉食系霊獣の足が止まった。
「……何?」
「今のも見られている」
肉食系霊獣の耳が伏せられ、慌てて周囲を見回す。中庭。訓練棟の窓。廊下。
「どこだ」
返事はない。
「澄明はどこにいる!?」
肉食系霊獣が窓を見上げた、その一瞬だった。
小型霊獣の身体が、ふわりと浮いた。背後から駆け込んできた大型霊獣が、その身体を抱き上げていた。腕の中は、想像していたよりずっと温かかった。
「行くぞ」
「分かった」
それだけだった。大型霊獣は威嚇すらせず、小型霊獣を胸元へ抱えたまま中庭を離れる。
「待て! 澄明はどこだ!」
背後から声が飛んだが、大型霊獣は振り返らない。廊下へ入り、角を二つ曲がる。肉食系霊獣の気配が完全に遠ざかったところで、ようやく足を止めた。
「澄明は?」
「いない」
「やはりな」
大型霊獣は驚かなかった。
「気づいていたのか」
「あの場に澄明の香はなかった」
「なら、なぜ黙っていた」
「お前が時間を作った。なら、その間に離れる方がいい」
小型霊獣は大型霊獣を見た。
「戦わないのか」
「必要ない。あいつを倒すことより、お前を安全な場所へ移す方が先だ」
大型霊獣は腕の中の身体を、少し強く抱え直した。
「それに、せっかくお前が頭を使ったのに、俺が台無しにする必要もない」
「……そうか」
少しの沈黙。廊下の奥から、遠く職員の足音が聞こえていた。
「もう降ろせ」
「まだ早い」
「もう安全だ」
「分かっている」
「なら降ろせ」
「俺の中では、まだ終わっていない」
「それはお前の問題だろう」
大型霊獣が黙り込む。数秒後、素直に小型霊獣を床へ下ろした。小型霊獣は乱れた衣を整える。
「ところで」
「何だ」
「澄明の名前は使えるな」
「やめておけ」
「なぜだ」
「本人に知られた時、俺は助けられない」
小型霊獣は少し考えた。
「……それは困る」
「ああ」
二頭は顔を見合わせ、そして何事もなかったように、並んで廊下を歩き始めた。
コメント
1件
読ませていただきました。今回のエピソード、特に「澄明が見ているぞ」という嘘の使い方が本当に鮮やかでしたね。言葉を覚えた小型霊獣が、恐怖ではなく冷静に状況を判断して、相手の心理を突いた――その成長が胸に響きました。大型霊獣が「戦うより安全を優先する」という選択をしたのも、この二人の信頼関係の深まりを感じさせます。最後の「それは困る」「ああ」という短いやりとりに、ほっこりしました。良い関係ですね。