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「さぁ着いたよ」
日向さんはマンションの鍵を開けると、扉を開けて「お先にどうぞ」と言い、私を中へと促した。
「えっと…… 」
『ただいま』という言葉が一番適切なのだろうけど、そう言う事にまだ抵抗を感じる。マンションの中に入っても、開いた扉の奥に見える居間まで続く廊下を見ても、全く知らない場所だとしか思えない。
「…… お邪魔します」
結局私は小さな声でそう言い、靴を脱いで中に入った。
「ここが書斎で、こっちが洗面所と風呂場。トイレはそこだよ。正面にあるドアの奥に、居間と台所がある。居間にあるドアの奥が、今は寝室に使っている部屋だ」
丁寧に部屋の配置を説明してくれる日向さんに、頷いて応える。木枠に曇りガラスのはめられた扉を開けて居間に入ると、部屋の中央にあるソファーを指差して「お茶を淹れるから座ってていい」と促された。
「あ、お茶だったら私が——」
「駄目だ。退院直後の君にそんな事をやらせたら、何の為に仕事を休んだかわからなくなるじゃないか」
「あ…… すみません。そうですよね」
苦笑いする日向さんの言葉に納得した。
昨日まで、ワンルームの狭いアパートに住んでいた記憶しかないのに、急に小綺麗で広いマンションに来ても何だか落ち着かない。無駄に物が多い訳ではないからそれほど大変ではないかもしれないが、本当にこの部屋を私が掃除していたんだろうか?と一瞬思った。だが、棚に並ぶ品々や壁に飾られた絵に目をやると、私が好みそうな物ばかりで確かに『私は此処に住んでいたんだ』とは感じる事が出来た。
「広いお家ですね」
居間に対面する形になっている台所に向かい、そう言うと、日向さんは顔を上げて、「そうだろう?独身時代に、利便性の良さに魅かれて、まぁ勢いもあって借りてしまったんだ」と教えてくれた。
「一緒に選んだ場所ではなかったんですか」
「…… あぁ。一緒だと、もっと狭い部屋になっていたんじゃないかな。家賃でももめただろうし。君は質素を好むタイプの様だしね」
「そうですね。そうなったと思います」
確かに、としか思えないくらいに部屋が広い。それでも妥協したって事は、もしかすると築年数は結構いっていて、お家賃が意外にも相場より少し安いとかなのかな?とちょっと思った。
「紅茶の味は、これでいいか?」
日向さんが私の方に向かい、シルバーの色をした丸い缶を見せてきた。ラベルにはメーカー名の他に、『ラズベリー』と書かれている。
「あ、私もそこの紅茶持ってます!スーパーじゃ売ってない味ばかり扱っていて、どれも美味しいんですよね。いつか全部制覇したいな何て思っていて—— 」とまで言って、ハッと我に返った。
「…… すみません。きっとそれ、私の買った物なんですよね」
好きな事の話でついはしゃいでしまっていた声が、急に小さくなる。
「職業柄、いつもコーヒーばかり飲んでいた俺が、始めて目の前で淹れてもらった時に飲んだ、思い出の味なんだ」
そう言いながら、日向さんは少し懐かしそうな表情をし、紅茶の缶を開けた。
「紅茶の好きな君程上手くは淹れられないし、ジャンピングもきちんと出来ていないかもしれないが、その辺は勘弁してもらっていいかい?」
「そんな!淹れてもらえるだけで嬉しいです。でも…… いいんですか?そんな思い出の葉を私が頂いても」
「あぁ、他の奴には絶対にお断りだけどね」
日向さんはティーポットとカップを二つお盆に乗せ、居間の中央に置かれてあるテーブルまでそれを運んで来た。
「何かお菓子でも買ってくるべきだったな」
ボヤくように言い、日向さんは床に膝をついて座り、お盆をテーブルの上へ。
「いえ!紅茶だけで充分ですよ」
「そうか?ならいいんだが」
蒸らしの終わった紅茶の入るティーポットを持ち、少しづつカップに注ぎ始める。その様子をじっと見ていると、「あまり期待しないで欲しいな」と少し困った顔を向けてきた。
「すみません!そういうつもりじゃなかったんですっ」
そう言って、私は慌てて手を横に振った。
「美味しそうだなぁって思って見ていただけで、深い意味は…… 」
「ならよかった。——さぁ、どうぞ」
カシャッと食器が小さな音を鳴らしながら、私の前に甘い香りと温かな湯気をあげる紅茶の入ったカップが置かれる。
「ありがとうございます。いただきます」
軽く頭を下げてお礼を言ってまだ熱いカップを手に取り、紅茶を一口。ゆっくり飲み込むと、私は久しぶりに味わう紅茶の味にホッと息をついた。
「…… 美味しい」
「よかった。実は見様見真似で、一度も自分で淹れた事もなかったからね。——しかし、アレだな…… 」
言葉を切り、日向さんが自分の淹れた紅茶を一口飲む。
「…… ?」
「コーヒーはコーヒーメーカーとか使えば割と美味いのが飲めるが、紅茶は難しいね。上手に淹れられる人の凄さを改めて実感するよ」
「そうですね、お湯の温度とか色々ありますし…… 。あ、でも!日向さんの紅茶、美味しいですよ」
「ありがとう、君は優しいね」
そう言い、ニコッと彼が微笑んでくれた。優しそうな笑顔に、ほんわかしたあたたかい気持ちが心に湧く。
「あの、突然ですけど…… 私達の出逢いってどんな感じだったんですか?」
自分は今まで、この小さな身長と童顔のせいでまともな人に好意を持ってもらえた事が一度もない。変質者としか思えない人に声をかけられたり、妹扱いしかされてもらえずに恋人関係になれた相手なんて一度も。
——それなのに!どうしてこんな身長の高い刑事さんな人が私の夫になってくれたのかさっぱり想像が出来ない。どちらからどうだったのか、どこで出逢い、どういった経緯で結婚にまでいけたのか。
未来の自分——いや、正確には過去の自分なのだろうが、とにかく、記憶にない部分の自分に
『よくやった!』と言ってやりたい位に今の状況は私には満足のいくものであり、でもそれと同時に、とても想像がつかない状態でもあった。
「…… 君の、知っている通りだよ。病院で逢ったのが最初さ」
結婚までの経緯を知りたくて、どうやって付き合ったのかが知りたくって訊いたのに、予想外の答えが返ってきた。
「——え?そうじゃなく…… 」
「わかってるよ」と、私の言葉を日向さんが遮る。
「でもね、記憶にない部分にこだわるよりも、俺は『今の君』を大事にしたいんだよ。まだ大学生で、俺を知らない君をね」
「日向さん…… 」
「あー…… でもアレだな」と言い、彼が頭を軽くかく。
「なんでしょう?」
「名前では呼ばせてもらってもいいかい?『君』じゃなく、『唯』って呼び捨てで。もちろんイヤならイヤだって、ハッキリ言ってくれていい」
私の顔色を窺う様にそう言うので、私は日向さんに向かい微笑んでみせた。
「もちろん構いませんよ。じゃあ、私も『司さん』って呼んでもいいです?」と訊いてみる。
「嬉しいな、ありがとう」
司さんはそう言うと、とても嬉しそうな笑顔を浮かべてくれた。ただ名前で呼ぶだけなのに、どうしてこんなに嬉しそうにしてくれるんだろうか?
他人行儀じゃないってだけで、やっぱり嬉しいのかなぁ…… 。