「じゃあ覚えておいて。早瀬 樹」
今度は急に優しい眼差しでその名前を伝えてくる。
「早瀬・・樹・・」
その雰囲気に流されるかのように、思わず静かに自然に繰り替えして呟くその名前。
「そっ。忘れないで。透子」
!!!!!!
だからその優しく囁くように名前呼ばないで。
調子狂う。
「だから、名前!呼ばないでってば・・!」
「なんで?オレは平気だけど」
必死で抵抗しても飄々としながら開き直って全然聞こうとしない。
「ここ会社!あなたとは初めて今出会って・・いや、二回目か・・。いや!そんなんどっちでもよくて!」
もう何が何かわからなくなってきた。
なぜかこの人にはいつもの自分の調子が全然通用しなくて、ことごとく裏をつかれて想像しない方向に持っていかれる。
やばい。こいつ、私の天敵かもしれない・・・。
私の中のセンサーがこれ以上近づいたら危ないとサイレンを鳴らす。
「オレも樹でいいから」
そしてまた全然懲りもせず、余裕の微笑みで無邪気に笑いかける。
ダメだ。
危ないとわかっているのに、またその微笑みに胸が高鳴る自分に気付く。
「よ、呼ばないよ・・」
これ以上は危険だと予感して、詰め寄られてる身体を空いていた両手で離れさせようと向こうへ押しやる。
だけど。
やっぱり向こうは一枚上手で。
壁越しにあった両手から片方の手を下ろして、すかさず今度はそのあたしの離れさそうと身体を押しやっていた両手首を軽々と片手で掴みとる。
「呼んで。樹って。そしたらこの手放してあげる」
まったくの狂いもなく捕らえるかのように私の手首を瞬時に掴み取って。
一ミリも一瞬も目を離さずに。
そんな甘い駆け引きを持ちかける。
羽ばたこうと蝶のように羽を広げても、すぐに捕らえられる。
そして逃げられない選択に導かれる。
彼にとって望む選択でしかないその一択に。
掴まれている手首からは密かに感じる握る力の強さ。
片手だけで支えて片手だけで掴んでいるのに。
捕まれている自分よりも何倍も力が強くて。
振りほどけないほどの強さを感じて、抵抗しても無駄なことも同時に察する。
ここまでの状況に追い込まれてると、さすがにもう決心するしかない・・・。
「い・・樹・・・」
さすがに名前を呼ぶのには抵抗と恥ずかしさを感じて、思わず目を逸らして俯きながら呟く。
「よく聞こえなかった。もう一回」
ちょ、ちょっと!!
こんな恥ずかしいこと何回も言わせないでよ!!
思わず怒りで顔を上げて、反撃しようとしたのに。
目の前にさっき以上に近付いてる顔と真っ直ぐな眼差しがまた私を捕らえる。
「ちょ・・いい加減にしてよ!」
「いいの? もう一回言わないと、この手放さないし、こっからどうするかわ かんないけど?」
そう言いながら数ミリの近さまで顔を近づけてきて、さすがに観念。
「わかった!!樹!!これでいい!?」
数ミリ前まで唇が重なりそうな寸前で、勢いよく名前を呼んで動きを止めさせる。
そこで動きが止まったものの。
「ダメ。そんな投げやりの呼びかたは認めない」
ちょっと!私にこれ以上どうしろっていうのよ!
「ちゃんと気持ち込めて呼んで?」
だからダメなんだよ。
力強かったかと思えば、今度はまたそんな甘く囁く声で。
ずるい。
どんどんペースに引きずりこまれる。
ずるい。
もう言いなりになるしかないじゃん。
さすがにもう諦めて気持ちを整えて、静かに一回深呼吸。
ふぅ~。
「放して? 樹・・・」
今度は穏やかに。
ちゃんと呼んだ。
だから早く放して?
なのに。
少し黙ったままで。
「どうしよっかな~」
「え?」
「そんな可愛い言い方したら、今度は放したくなくなる」
そして今度はまた想像を超えた言葉を投げつけて来た。
あーダメだ。
もうどうしていいかわかんない。
私はもう戸惑いすぎてそれ以上返す言葉が見つからない。
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