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年に一度の華道展。
わたしの町の公民館は、老若男女問わない来客たちで溢れかえっていた。
時たま新聞で目にするプロの華道家から、わたしのような学生の市民華道家までが一堂に会し、それぞれの技と美を披露し合うのだ。
しかし、わたしの作品はお世辞にも人に見せられるような出来栄えではなかった。
部員のみんなと同じ“桔梗”なのはずなのに、茎の長さの加減が分からず手当たり次第に切ってしまい、だらりと情けなく垂れる姿に変えてしまったのだ。
勿論、成績は最低。
一応期限内に完成させられたので、顧問も渋々受け入れてくれたものの、ここまで来たら展示しない方がわたしとしては気が楽…だったのだが。
そんな、わたしの桔梗そっくりに項垂れている中のことだった。
突如、大勢の来客で賑わっていたはずの館内から、音と時が奪われた。
凛とした青紫に染まった桔梗の生花が、わたしを見据えていた。
『古くから、紫色は高貴な色として愛されていた』―――歴史の教科書に載っている一文が、ふと脳裏を過る。
この青紫はまさに、その表現が相応しい色だった。
作者は華道部のエースである須藤千尋くん。
その生花を見ているだけで、須藤くんの姿や記憶が次々と咲いていく。
生花の才能はさることながら、黒絹のように滑らかな髪に、澄んだ声。
そして、物腰柔らかで中性的な風貌。
所作一つ一つが優雅で、彼が細い指で花を手にすると、その花自体が彼の一部に思えてくるほど、気品漂う人だった。
“青空に爛々と咲き誇る”というよりも“初春の雪野原で控えめに開く”花の姿が、わたしの目を引きつけて離さない。
今日はこの“高貴な色をした花”を目に焼き付けて帰ろう。…そう思い、背を向けようとした瞬間だった。
―――如月さん。
声の高い男とも声の低い女とも取れる、聞き慣れた声が耳に飛び込む。
…まさか。
思わず振り返ると、その声の張本人は、真っ直ぐにわたしを見つめていた。
「須藤くん」
少しの沈黙が落ちた後、わたしはそう答えた。
彼の瞳は、まるでその桔梗と同じ青紫を宿しているかのように、深く、静かにわたしを捉えていた。
高貴な色―――その言葉を反芻する。
「如月さんの作品、見たよ。ちょっと迷いがあったけれど、熱心な手つき本物だった。…本当にすごいよ」
須藤くんの言葉はいつもこうだった。
どんなに拙かろうが、救いを見出しては、花のように優しく包みこんでくれる。
…でも、だからこそ胸が締め付けられた。
須藤くんに無理強いさせているみたいだったから。
「ありがとう、須藤くん。でも…やっぱり、わたしのはダメだった。見る人が見れば、すぐに分かるよね。」
あぁ、また言ってしまった。
項垂れる自分の姿がまた情けなく思える。
けれど、須藤くんは小さく笑うと、首を振った。
「ううん、そんなことないよ。如月さんには、如月さんのまっすぐな心が映し出されている。どんなことよりも、それが一番大事だと思うな」
その言葉に、わたしの心はまたくらり、と揺れた。
一点の曇りもないその微笑み、その声色、その心は、さながら純白の百合の花。
全てがあまりにも美しくて、わたしは何も言えなかった。
その晩、わたしは華道展の余韻に浸りながら、須藤くんのことを考えていた。
部活で何回も目に焼きつけたはずなのに、今日の興奮は比ではなく、今なおこの胸の鼓動は鳴り止みそうにない。
…眠れない夜になりそうだ。
むっとした熱気が部屋中に広がる。
それは、畳の少し枯れた匂いと混ざり、僕にとっての媚薬へと変わっていく。
僕は今、畳部屋で父さんと向き合っていた。
障子の向こうから差し込む月光が、白いタンクトップ姿の父さんの鍛え上げられた肩に銀の輝きを投げかけ、それが彫像めいた荘厳さを助長する。
しかし、“彫像めいた”といっても、汗ばんだ巨躯と熱を帯びた視線は本物だ。
目が合う度に、僕の背筋に妙な感覚が走る。
「何度も言うが、今日の華道展は素晴らしかったな。お前のまっすぐな情熱がそのまま花になったようで…お前の心、しっかり伝わったぞ」
唸るような低い声が僕の身体に響き渡り、背筋を通っていく。
―――ううん、そんなことないよ。如月さんには、如月さんのまっすぐな心が映し出されている。どんなことよりも、それが一番大事だと思うな。
あの時、如月さんに投げかけた言葉。
あれも父さんの借り物でしかない―――僕は、父さんありきの存在だ。
父さんはどこか強引な人だ。
ガハハと野太い声で笑い、酔っ払うと丸太のような腕で僕を抱きしめてくる。
汗の臭いが染み付き、ごわついた腕毛が頬を掠める時―――妙な感情を抱いてしまう。
普通の人なら嫌がるだろうが、僕は『愛してくれているんだ』なんて錯覚してしまう。
ガサツだが、母さんと共に乳飲み子の頃から僕を支えてきた、愛情と逞しさに満ち溢れた人間。それが父さんだった。
「父さん…」
褒めてくれるのは日常茶飯事だというのに、その時の僕の返事は、少し震えていた。
畳の上に正座したまま、そっと手を伸ばすと、父さんの大きな手がそれを迎え入れる。
可憐で凛々しく咲く桔梗。
しかし、そんな桔梗も種と水だけでは育ってくれない。
骨ばった指と毛深い腕。そして熱った巨躯。
その二つもあってこそ成り立つのだ。
外見通りの武骨な握り方だが、決して痛いとは思わない。
むしろ、包みこんでくれるような温もりが、そこには在った。
「相変わらず綺麗だよな。お前って。こんなに華奢なのに…きちんと芯があんだよ」
父さんの声が、いつもより低く、熱を帯びる。
その言葉に、僕の頬はほんのりと朱に染まる。
父さんの視線は、僕の黒髪を、首筋を、そしてワイシャツの下の華奢な身体を、まるで花の輪郭をなぞるように見つめる。
「父さんだって、とても芯がある人だよ。力強くて、優しくて…」
こそばゆくなり、言葉が続かない。
ひたすらに、父さんの大きな胸板に身を寄せる。
薄いタンクトップ越しから感じる、むせ返るような漢のフェロモン。
むっと鼻をつくが、いつも身を粉にして働いてくれている証だ。
今の僕は、さながら食虫植物が放つ甘い香りに吸い寄せられる蜜蜂。
駄目だと分かっているはずなのに、心はすっかりこの臭いに魅入られてしまったようだ。
父さんの大きな手が、僕の背中をゆっくりと滑る。
ざりざりとした感覚が心地よい。
「そりゃあ良かった。自慢のカワイイカワイイ息子にそう言われて、俺も鼻が高いぜ」
白い歯を見せて、父さんはそうはにかんでみせる―――ああ、本当にかっこいい。
部屋に木霊する笑い声に、僕はゾクゾクしてしまう。
「かわいい…なんて、そんな」
気づけば、僕の声色はすっかり媚びたものになっていた。
絡め取られ、挟まれ、呑み込まれ、藻掻くこともせずそのまま身を委ねていく。
蕩ける芳香と共に、僕の身体は蕩けていくのだ。
さっきとは打って変わって、壊れ物を扱うかのような繊細な手つきで、僕を愛撫してくれる。
「愛しているぞ。千尋」
その宣言と共に、僕の唇と父さんの唇が重なった。
細身の身体が父さんの巨躯にすっぽり収まった様は、まるで僕が父さんの一部になったかのようだ。
障子の向こうで、母さんの気配を感じる。
彼女はいつも、こうして静かに見守ってくれる。
彼女の微笑みは、僕と父さんのこの愛を、まるで一輪の花のように受け入れ、慈しんでくれるのだ。
「うん。剛毅さん…大好き」
みんなには、如月さんにはとても言えない関係。
でも、僕はそんなねじれた関係がどうしようもなく好きだった。
桔梗の花言葉:永遠の愛、変わらぬ愛、気品、誠実