急いで職場に向かった杏樹はなんとかぎりぎり間に合った。
「杏樹遅かったじゃん」
いつもよりだいぶ遅れて窓口に行った杏樹に美奈子が声をかけた。
「すみません、寝坊しちゃいました」
「寝坊かぁ…間に合って良かったね。それよりさぁ、昨日徹夜だったらしいよ?」
「徹夜? 誰がですか?」
「副支店長と融資課長」
「え? なんで?」
「森田さんが受け持っていた件でまた大問題が発生したらしいの。それで二人で泊まり込みで修正ですって」
「…………」
杏樹は驚く。まさか検査中にそんな事になっているなんて思いもしなかった。
「でも検査前に見直しをしたんじゃ?」
「融資課内ではチェックしていたみたい。でも副支店長が見直した時に気付いたらしいわ。それで大慌てで直したみたい」
「そうだったんですね…」
その時検査部の行員が1階に降りて来たので二人はお喋りをそこでやめた。
開店時刻が近付くと店内に音楽が流れ始める。そしてシャッターが開くと同時に外で待っていた客がなだれ込んで来た。
今日は五十日(ごとうび)なのでいつもよりも来店客が多い。
杏樹達窓口係はしばらく接客に追われた。
漸く朝の混雑が落ち着いた頃、優弥が二階から降りて来た。
優弥の声に気付いた杏樹は後方に伝票を渡す時にチラリと副支店長席を見た。
そこに座っている優弥は昨日と同じ服装だ。美奈子が言っていたのは本当のようだ。
優弥は少し疲れているように見えた。おそらく仮眠しかとっていないのだろう。
杏樹は心配しながら再び前を向いた。
昼休み、杏樹は食堂へ行く前にスマホを取りにロッカーへ行った。しかしバッグの中にもコートのポケットにもスマホはない。
(家に忘れてきたのかな? まあ一日くらいなくてもね…デジタルデトックスにもなるし)
杏樹は諦めて食堂へ向かった。
昼食を終えた杏樹は化粧室で歯を磨き化粧を直してから出口へ向かった。
化粧室を出た途端、杏樹は何者かに腕を掴まれ隣の給湯室へ押し込まれた。
「キャッ」
びっくりした杏樹が声を上げると優弥が人差し指を唇に当てて「シーッ」というポーズをとっている。
杏樹の腕を引っ張ったのが優弥だとわかり杏樹はホッとする。
「ど、どうしたんですかっ?」
「俺のメッセージを無視したな?」
「メッセージ?」
「昨夜も今朝も何度送っても既読すらつかない。一体何を怒っているんだ?」
「ち、違います……それは……」
「言い訳次第ではたっぷりとお仕置きしないとなぁ」
「違いますっ、無視なんてしてませんっ…今日はスマホを家に置いてきちゃったから…」
杏樹の答えを聞いた瞬間、優弥はポカンとしていた。
「忘れた?」
「はい、今朝は寝坊して慌てて家を出たので」
状況を理解した優弥はククッと笑う。そして再び聞いた。
「でも昨夜は手元にあっただろう? なのに返事がなかったぞ?」
そこで杏樹はハッとする。昨日は早めにふて寝をしたのでスマホを見ないままだった。
「あ、昨日は早く寝てしまったので……」
「ふて寝したのか?」
「ち、違いますっ」
「いーや、絶対そうだ。ちなみにあれは勘違いだから」
「勘違い?」
「昨日の昼休みに話を聞いて俺の事を疑ってるんだろう?」
「ちっ、違いますっ」
杏樹は顔を真っ赤にして否定した。しかし言葉とは裏腹な態度が杏樹の本心を露わにしていた。
(やっぱり…)
優弥は途端に優しい笑みを浮かべると杏樹に諭すように言った。
「検査部の藤原とはただの先輩後輩で何も心配するような事はないから。彼女とは付き合った事もないし付き合おうと思った事もない。彼女とバーへ行ったのは別件で話しがあると呼び出されたからだ。それについてはまた今度詳しく話すよ」
嘘をついているようには見えなかった。優弥は真面目な顔で杏樹に真摯に語りかけている。
それを見た杏樹は心底ホッとしていた。
「本当に付き合った事はないの?」
「本当だ」
「信じていいのね?」
「当たり前だろう」
しかし杏樹はつい素直になれなくてこう言った。
「わ、私は別にふてくされてなんていませんけど?」
必死に強がる杏樹を見て優弥はクスッと笑う。
それから杏樹をギュッと抱き締めた。
「ふ、副支店長っ……」
「愛してるのはお前だけだから」
その言葉に杏樹の胸がジーンと熱くなる。
しかしここが職場だと気付いた杏樹は優弥をたしなめる。
「副支店長っ、ここではラブラブチュッチュは禁止ですよ」
杏樹はこんな場面を誰かに見られたら大変だと思い真剣に訴える。しかし優弥は全く気にしていないようだ。
優弥はもう一度杏樹をギューッと抱き締めると今度は杏樹のおでこにチュッとキスをした。
その時階段から誰かが下りてくる足音が聞こえてた。
「じゃ、そういう事でよろしく」
「わかりました」
すぐに二人はビジネスモードに戻って会話をする。
優弥はもう一度杏樹に優しく微笑みかけると給湯室を後にした。
杏樹は真っ赤な顔のまま両手を頬に当てその場に立ち尽くしていた。
廊下を歩いて行った優弥は廊下で京香とすれ違う。
「あらぁ黒崎さん、お昼休みはもう済んじゃったの? 今日もご一緒しようと思ってたのに…」
「申し訳ありません、今日は午後から約束があるので」
「外回りですか? なんだ、つまんなーい」
残念がる京香に優弥は「失礼」と言ってから2階へ上がって行った。
優弥の後ろ姿を見送った京香は給湯室へ向かって歩き始めた。その表情は殺気立っている。
おそらく優弥が給湯室から出て来たのを見ていたのだろう。
ヒールの音がカツカツと響き京香が徐々に近づいて行く。給湯室で息を殺していた杏樹の緊張は一気に高まった。
(私が副支店長と一緒にいたってバレちゃう……)
杏樹は手に汗を握った。
その時廊下の途中にあるドアがバタンと開いた。ドアの向こうからは検査部の男性が顔を出した。
「ああ藤原さん何やってんのー早くこっちに来て手伝って下さいよー、時間なくなっちゃいますからね」
「あっ……は、はい」
京香はがっかりした様子でしぶしぶと業務フロアへ入って行った。
間一髪のところで助かった杏樹はホッと息を吐く。
そしてもう一度化粧室へ行き身だしなみをチェックをしてから自分の持ち場へ戻った。
その日帰宅した杏樹はリビングテーブルの上に置いてあったスマホを見つける。
スマホは時折光を放ちながらメッセージが届いている事を知らせていた。
杏樹はソファーに座りすぐにメッセージをチェックした。
【お疲れ! 食堂での事は気にするな。彼女とは何でもないんだから】
【杏樹どうした? 返事がないぞ?】
【おーい、どうした?】
【マジで怒ってるのか?】
【怒ってるなら仕方がないな。本当は今日帰ってちゃんと説明するつもりだったんだが融資で不備が見つかったんで朝までに修正しないとなんだよ。だから後日またちゃんと話すから】
昨夜のメッセージはそこで終わっていた。
そして今朝のメールはこうだ。
【おはよう。完徹なんて久しぶりだったから結構しんどいな。今日帰ったらちゃんと話すからもうちょっと我慢してくれ】
杏樹は少し弱気な優弥のメッセージを見て胸がズキンと痛む。
杏樹がぐっすり眠っている間に優弥はこんなにも気を遣ってくれていたのだ。そう思うと今胸がキュンキュンする。
そこで杏樹は優弥に返信した。
【お疲れ様。今家に帰ってスマホのメッセージ見ました。いっぱいメッセ―ジくれていたのに気付かなくてごめんなさい。今日は早く帰ってちゃんと睡眠取ってね】
すると1分も経たないうちに返事が来た。
【ありがとう。検査もあと一日だ、頑張ろう。杏樹もしっかり寝ておけよ】
【うん、わかった】
優弥からは最後にグッドマークのスタンプが届いた。
それを見て杏樹は微笑む。
今杏樹は優弥の事をとても愛おしく思っている自分に気付いた。
コメント
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優弥さん、徹夜で大変なのに杏樹ちゃんを気遣い 大量にメール送信.💌💖 漸く誤解が解け 給湯室でのラブラブチュッチュで無事解決....😘💋( *´艸`)♡ 危なかったけど💦、京香にバレなくて良かったね....😌
危なかった😱💦見つからんかって良かったね😆ギリギリセーフ😆後1日頑張って⤴️⤴️⤴️何か起きそうやけど😱😱😱💦
五十日、テラー、重い扉の金庫、札勘、懐かしいです。仕事内容の懐かしさに、お話に益々引き込まれます。社内恋愛も・・私も食堂で昼食の後歯を磨いて身だしなみチェックし窓口に戻っていました。遠い昔と、我、青春時代の岩見沢を思い出しています。先生のお話全てに感慨深く、そしてちょっぴり苦い思い出に浸っているこの頃です。どうぞ、すべてが素敵なハッピーエンドでありますように!毎日、更新を楽しみにしておりす。